2013年3月30日 / 最終更新日 : 2013年3月30日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【完】十年間の調査報告 辿りつきしところ(4) 妻と語り合った。私は尋ねた。 「きみが生後まもなく養女に迎えられたのはいつごろのことだったのかな」
2013年3月23日 / 最終更新日 : 2013年3月23日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【61】十年間の調査報告 辿りつきしところ(3) がれきに埋もれ身動きとれない私たちを誰が救いだしてくれたのでしょうか。町の警防団の人たちでしょうか。少しでもそれが遅れていたら私は間違いなく息絶えていたことでしょう。
2013年3月16日 / 最終更新日 : 2013年3月16日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【60】十年間の調査報告 辿りつきしところ(2) 何か確かなものをつかみとろうとして彷徨いつづけたあげく、亡き母・清子の胸に辿りついたのである。それは単に生母という意味だけではない。母と私は、祖母とともに爆撃で瓦礫と化したわが家に埋まり運命をともにした、特別の絆で結ば […]
2013年3月9日 / 最終更新日 : 2013年3月9日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【60】十年間の調査報告 辿りつきしところ(1) 絶えず旅をしていたような想いである。そして今、ようやくそれも終わりを迎えたようだ。 生を受けたところとは違う隣町の椋浦で保育所と小学校を過ごした。中高へは実家のある三庄町から通学。大学は広島市である。その中途で上京し […]
2013年3月2日 / 最終更新日 : 2013年3月2日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【59】十年間の調査報告 31年前の新聞(6) 31年前の中国新聞の小さな記事を見たことをきっかけに、私自身が空襲の事実を忘れることで戦後を生きてきたひとりであることを痛切に確認することになった。かなり前からこのことに気付いていた。
2013年2月23日 / 最終更新日 : 2013年2月23日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【58】十年間の調査報告 31年前の新聞(5) 破壊活動防止法違反の裁判を東京地裁において闘っている最中の私は、因島空襲調査における致命的な失敗を犯すのである。全国的な公刊物において因島空襲の写真が公開されたにもかかわらず、見逃してしまったのだ。
2013年2月16日 / 最終更新日 : 2013年2月16日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【57】十年間の調査報告 31年前の新聞(4) 自由国民社から共著で本を出した直後、いっそう大きな発言の場を得た。中国新聞東京支社から全学連書記長の私に、宮地茂文部省大学学術局長(当時)と対談をする企画が持ち込まれたのである。
2013年2月9日 / 最終更新日 : 2013年2月9日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【56】十年間の調査報告 31年前の新聞(3) 31年前の中国新聞因島支局の記事を読み、そのころのことに想いを巡らせているうちに、ないものねだりをしていることに気付いた。そもそも広島市中心の新聞に因島空襲の取材をいささかも期待してはならないのだ。彼らがそれをするはず […]
2013年2月2日 / 最終更新日 : 2013年2月2日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【55】十年間の調査報告 31年前の新聞(2) 日立造船因島工場内に殉職碑「殉護照」が建立された昭和57年(1982)ころにもどってみよう。
2013年1月26日 / 最終更新日 : 2013年1月26日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【54】十年間の調査報告 31年前の新聞 昨年12月上旬のある会合でのことである。同席した向島町の写真家から、31年前の中国新聞の記事を見せてもらった。日付が昭和57年2月9日と鉛筆で記入されていた。私がUターンし、因島に住み直すおよそ10年前のものである。
2013年1月19日 / 最終更新日 : 2013年1月19日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【53】十年間の調査報告 生名島と弓削島(3) 「生名村誌」の「高射砲陣地と捕虜収容所」という項目を引用しよう。 ―このころ日立造船因島工場の防衛のため、生名島の厳島と深浦には高射砲陣地が設けられ、所属の部隊が配置されていた。その宿舎には生名国民学校の一隅の建物(通 […]
2012年12月22日 / 最終更新日 : 2021年8月10日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【52】十年間の調査報告 生名島と弓削島(2) 「弓削町史」と「生名村史」は因島空襲をどのように記述しているのか、因島図書館に向かった。そして生名村史を読んで愕然とした。生名島から見た空襲が、最大限度のスペースをとって書かれていたのだ。この時ほど、因島で生まれ育ったこ […]
2012年12月15日 / 最終更新日 : 2015年5月17日 times 上島町 空襲の子Ⅱ【51】十年間の調査報告 生名島と弓削島(1) 私は今年の8月下旬、国立国会図書館から取り寄せた「造船政策五十年史」(昭和61年、旧運輸省)を閲覧するために今治市立図書館にいた。その本には、全国の造船所の戦災状況をランク表にしたものが掲載されていた。日立造船因島は、工 […]
2012年12月8日 / 最終更新日 : 2012年12月8日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【50】十年間の調査報告 尾道と因島空襲(5) 因島空襲は、学徒動員、徴用工動員などをつうじて多くの尾道市民をその渦中に巻き込んでいった。動員された人たちの背後に多くの家族、親族、友人、知人がいたはずだ。にもかかわらず「新修尾道市史」(全6巻、昭和46年~52年)は、 […]
2012年12月1日 / 最終更新日 : 2012年12月1日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【49】十年間の調査報告 尾道と因島空襲(4) 尾道と因島空襲。日立造船因島工場への学徒動員の中心を担った、尾道商業47・48期生は声を大にして語っている。彼らは平成一七年五月、喜寿の年に、「同期の思い出」という小冊子を発行している。
2012年11月24日 / 最終更新日 : 2012年11月24日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【48】十年間の調査報告 尾道と因島空襲(3) 向島町の藤井壯次さんが出版した詩集『「ロムニー」の青春』には、東生口国民学校高等科2年の生徒としての学徒動員体験が綴られている。
2012年11月17日 / 最終更新日 : 2012年11月17日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【47】十年間の調査報告 尾道と因島空襲(2) 因島空襲調査のことが報道されるようになり、各方面から連絡をいただくようになった。そのなかに尾道市久保の方からいただいた葉書がある。それは、徴用工として日立造船因島工場に動員された体験を綴ったものである。「因島空襲の思い […]
2012年11月10日 / 最終更新日 : 2012年11月10日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【46】十年間の調査報告 尾道と因島空襲(1) 空襲を受けた当時の日立造船因島工場などの造船所には、全国から従業員が集まっていた。そればかりか県下から徴用工、備後地方を中心にした多数の学徒動員生、朝鮮人徴用工、英軍捕虜らが働いていた。船員、軍人も様々な地域からやって […]
2012年11月3日 / 最終更新日 : 2012年11月3日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【45】十年間の調査報告 日本郵船の決断(3) 日本郵船が会社の総力をかけて「日本郵船戦時船史」を出版した背景として、大戦によって日本商船隊が壊滅したことや、その他にも多くの小型の機帆船や漁船が失われたことが考えられる。アメリカは、勝敗のカギが日本の海上輸送路を破壊 […]
2012年10月27日 / 最終更新日 : 2012年10月27日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【44】十年間の調査報告 日本郵船の決断(2) 私が「日本郵船戦時船史」を知ったのは、五年前のことである。因島空襲の犠牲者である楠見高行さんの長男啓二さんを三庄町千守の自宅に訪ねたときである。その場面を「空襲の子」~因島空襲と青春群像(34)に記した。
2012年10月20日 / 最終更新日 : 2012年10月20日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【43】十年間の調査報告 日本郵船の決断(1) 戦災に対して、日立造船と日本郵船は正反対の対応をとった。日本郵船は1971年(昭和46)5月、大きな決断のもとに会社の総力をあげて「日本郵船戦時船史」を刊行した。上巻千ページ、下巻913ページ、合わせておよそ2千ページ […]
2012年10月13日 / 最終更新日 : 2012年10月13日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【42】十年間の調査報告 因島空襲と企業(6) やっぱりか、と思った。因島図書館で先日、岡崎兵衛さんが作成した郷土資料を閲覧した時のことだった。会社内部では、日立造船因島工場において空襲で百人規模の犠牲者がでたことが、共通認識になっていたのだ。
2012年10月6日 / 最終更新日 : 2012年10月6日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【41】十年間の調査報告 因島空襲と企業(5) 先日のことである。土生国民学校5年生の11歳のときに3月19日の空襲を体験した田中善造さんにお会いし、その現場に行き、説明を聞くことができた。
2012年9月29日 / 最終更新日 : 2012年9月29日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【40】十年間の調査報告 因島空襲と企業(4) 前回紹介した、3月19日の空襲についての会社側の発表も過少としか思えない。私は2008年7月下旬、その空襲で右腕を失った板倉治男さんにお会いし、お話を聞くことができた。山陽新聞の青木歓克記者が同席し、記事を書いた。
2012年9月15日 / 最終更新日 : 2012年9月15日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【39】十年間の調査報告 因島空襲と企業(3) 当時の造船所は軍需工場であったから、軍の統制下にあり、空襲被害の発表も過少になされたことは言うまでもない。問題はその内容が戦後も企業によって見直されることはなく、維持されたままになっていることである。
2012年9月8日 / 最終更新日 : 2012年9月8日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【38】十年間の調査報告 因島空襲と企業(2) 「因島造船所は、3月19日と7月28日との2回にわたって空襲を受け、数名の死傷者を出したほか、工場の施設に損害をうけたが、ほとんど操業に影響がなかった」(「日立造船75年史」、昭和31年)。
2012年9月1日 / 最終更新日 : 2012年9月1日 times 空襲の子 因島空襲 日立因島被災ランクは中 船舶史の研究をつづけている因島田熊町在住の中村公巳さんは、蔵書のなかに因島空襲の実態解明にヒントとなる記述を発見した。
2012年9月1日 / 最終更新日 : 2012年9月1日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【37】十年間の調査報告 因島空襲と企業(1) 先日、福山市の女性に、因島空襲について企業が情報を改ざんしたことを説明していると、「東京電力と同じですね」との反応が返ってきた。今風には、そのように表現するのか、と思ったが、空襲に関する情報操作は、原発とは比べものになら […]
2012年8月25日 / 最終更新日 : 2012年8月25日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【36】十年間の調査報告 因島空襲と行政(7) 私は2009年6月下旬、倉敷市水島支所にいた。そこは水島臨海工業地帯の只中にあった。JR倉敷駅で臨海鉄道に乗り換えて行くのである。
2012年8月11日 / 最終更新日 : 2012年8月11日 times 空襲の子 空襲の子Ⅱ【34】十年間の調査報告 因島空襲と行政(5) 私が三庄町の松本家から椋浦町の青木家の養子に入ったのは、1962年(昭和37)6月5日のことである。この時をもって青木茂氏は、義理の叔父になった。それからほぼ六年が経て、彼は「因島市史」を編纂し、私をいったん死にまで追 […]