空襲の子Ⅱ【61】十年間の調査報告 辿りつきしところ(3)
がれきに埋もれ身動きとれない私たちを誰が救いだしてくれたのでしょうか。町の警防団の人たちでしょうか。少しでもそれが遅れていたら私は間違いなく息絶えていたことでしょう。
わが家付近は三庄町を襲った爆撃の最大の現場でした。まさしく地獄でした。一発の爆弾が三軒を直撃しました。三家族が住んでいた三階建のカキノ屋。全壊し十人以上が亡くなったと思います。そのほとんどが子供でした。理髪店の山崎さんの家も跡形もなくなりました。幸い家族の皆さんは防空壕に避難していて無事でした。
こうした大混乱のなかでよくぞ救出してもらえたものです。きっと大勢の人が駆けつけてくれたのでしょう。聞くところによると、空襲警報が鳴るたびに防空壕に逃げ込む、そうしたことを繰り返しながら作業がつづけられたそうです。命がけだったのでしょうね。
ところが当の本人には、助けてもらったという記憶も感覚もまったくありませんでした。死にかけたということについて知ってはいたのですが。「自分で這い出したのだろう」くらいの想いしかなかったのではないでしょうか。
そうではないことに気付いたのは今から十年くらい前のことでした。思わず赤面しました。慌てました。私を救ってくれた命の恩人はいったい誰だろう、お礼をしなくてはと真剣に思いました。でも今さら間に合わないのです。そのひとたちの名前すら分からないのです。当時、父や祖父らが、言葉もままならない私に代って感謝の挨拶をしてくれたのでしょうが、「自ら直接お会いしてお礼をしたい」と強く思ったのです。
私はあの日の出来事を懸命に忘れようとしたのでしょうか。自らの運命を受け止められずに呪ったのでしょうか。生後間もないのだから覚えていない、という通りいっぺんの説明だけでは済まされません。赤ん坊は赤ん坊なりに恐怖や痛みを意識と身体で記憶しているはずです。守られ、助けられたことを喜んでいるはずです。泣いたり、喚いたり、笑ったり、暴れたり、各種の意思表示が立派にできるのですからね。
私は幼いころの記憶がほとんどありません。とりわけ六歳までのものがないのです。いくら思い出そうとしても駄目なのです。お母さんの顔も一瞬です。それも私を叱りつけた恐い表情です。あなたの亡骸だけは鮮明です。黙って蒲団に横たわっていましたね。
お婆さんも病に臥せていたときの姿しか浮かんできません。亡くなる直前だったのでしょうね。私は成長して小学生になっていました。孫たち全員がお別れのお見舞いに行った時のことです。
私にはあまりにも辛かったのでしょうね。あなたたちと生をともにした時期が。経過した時間と事柄のすべてを憎んだのでしょうね。それは、その瞬間に私を守るために一生分の愛を注いでくれたあなたたちへの裏切りでした。そしてまた生き埋めになった私を救いだしてくれた人たちへの背反でした。
忘れることで生きて行くこと、それは到底できないことでした。人生においては、それなくしては人生が成立しえない事項があります。それを消し去ろうとする努力ほど無意味なものはありませんでした。そうすればするほど生きていくことが虚しくなり、「自分は生きているんだ」という実感の喪失をもたらしました。
それは当然の報いでしょうね。私の生を条件づけている、あなたたちと名も知らぬ多くの人たちに見向きもしない日々を送ってきたのですものね。
随分、月日が経ち、本当にご無沙汰しておりました。恩知らずでした。本当に親不孝者でした。あらためてよろしくお願いいたします。
(青木忠)
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