続・井伏鱒二と因島【8】その作品に表現された「因島」

さらに「鞆ノ津付近」には続いて「遊郭」についての表現がある。

三ノ庄から土生まで海沿ひの道を行くと、岡を超えてまた次の岡を越える途中の埋立地に、整然とした区劃割になつてゐる女郎屋街があつた。これは寄港中の船員を収容するためのもので、全国でも模範的な遊郭であると云はれてゐた。

この花柳街で一ばんの姐御と立てられてゐる女郎が海で投身自殺をした。町ぢゆうの噂になった。死骸があがつたときにも噂がすぐに伝はつた。私は現場を見に行かなかつたが、立会ひに行つたお医者の話では、蛸が腹のなかに入つてゐたさうである。股間から潜りこんで腹壁を喰ひ破つたものださうだ。物見高い見物人が黒山のやうに集つて、そのうちの一人の漁師が股間から蛸を一ぴき掴み出し、つづいて二ひき三びき掴み出し、それを縄で縛つて町の市場の方へ持つて行つたといふ。それを聞いて私は当分のうち蛸を食べまいと思つた。

『鞆ノ津付近』(新全集第21巻264~265頁)

前掲出の「ふるさと三庄」には、続いて

家老渡の浪速遊郭は、第一次世界大戦による船舶工業と海運界の好況の余波を受けて、因島の船舶工業も活況を呈し、時流の波に乗って大阪下りの女性達と三庄の金融業者の出資によって大正7年(1918)8月設立された。大阪松島ゆうかく遊郭になら倣って、ナニワユウカクと命名、入港船の船員や造船所の従業員たちの慰安の場となり、紅灯の灯りで賑わった。全盛時には妓楼十四軒、遊女百名を超えたという。主な妓楼には大勝、喜楽、双葉、笑楽、梅川、昭和、大黒、開花、などがあって、遊客は船員80パーセント、工員15パーセント、一般5パーセント位だった由である。昭和16年(1941)12月8日の日米開戦により、軍部の命令を受け、翌17年12月廃業となった。

『ふるさと三庄』P35(昭和59年6月12日発行松本賢編集三庄老青連合会発行)

(石田 博彦)

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