空襲の子【37】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 楠見三兄弟の死(完)

 先日、因島空襲の犠牲になった楠見高行さんが経営していた鉄工所の跡地=写真=に行ってみた。因島三庄町3区の北郵便局付近である。現在は駐車場になっている。その場に立ち、三庄町という町の深部には、あの戦争の現実が決して風化することなく潜んでいるのだと改めて想った。そして酷い時代の犠牲になり翻弄されながらも強く生き抜いてきた多くの人たちがいることも知った。


 日立造船因島工場は土生町と三庄町をつないで展開していた。戦後閉鎖された三庄工場は子どもたちの遊び場であり、小遣い稼ぎの場でもあった。いたるところに屑鉄が埋まっており、真鍮(しんちゅう)や銅などけっこう高値で換金できた。空襲現場であったことなど誰も気にもせず、屑鉄拾いや魚釣りに夢中になった少年時代であった。
 長い旅から古里に戻って暫らくして、戦時中の三庄町8区に英軍捕虜収容所があったことを知った。200人近くが収容され、13人が病死した。三庄町を訪ねてきた元英軍捕虜との交流のなかで、彼らが、「広島への原爆投下があったから日本人は救われたのだ」と主張するのを聞いた。「空襲の子」の切なさを自覚し憎悪の芽生えに気付いたのは、その時だった。
 昭和20年7月28日、土生の工場とともに三庄町7区と8区の民家が狙われた。4カ所に爆弾が投下され、幼児をふくむ民間人が犠牲になった。その人数は17人と言われている。
 終戦になっても三庄町は太平洋戦争の傷跡から解放されることはなかった。昭和28年7月、太平洋戦争下の昭和19年6月13日に訓練中の事故で乗組員102人とともに松山沖の海底に沈んだ日本海軍の伊33号潜水艦が、9年ぶりに引き上げられた。遺体は収容され、多くの遺書が発見された。すべてを荼毘にふしたのちに伊33号が向かったのは、閉鎖されて間もない日立造船三庄工場ドックだった。解体するためである。
 ところが、ドック入り直前に停泊していた三庄湾で予期しない痛ましい事故がおきた。潜水艦内に入った元海軍技術将校3人が、内部で発生したガスの中毒で悲惨な死をとげたのだ。三庄ドックでの解体作業は慎重に進められた。発生するガスによる事故の心配もあったが、遺骨が残存していることが予想された。
 戦前、日本の潜水艦乗りは3を不吉な数とした。事実、3のついた番号の艦が2隻も沈没事故を起こした。伊33号は2度も沈没し、沈没日、殉職者数、沈没位置の水深など3のついた数字が多く、最悪の星を持った艦とも呼ばれた。よりによってその最後を3のつく三庄町で迎えることを誰が予想しえよう。
 三庄町7区のドックを真下にみおろす地元の森神社の保存会は慰霊の営みをつづけた。そのことに応えるように、遺族会事務局長の花咲幹生さんは、「嗚呼伊―33号潜・その縁」という文章で、「伊―33号潜は、呪われた運命の艦といわれたが、戦後は暖かい台(うてな)に恵まれ、仕合せな艦であると考えている」と述べている。
 因島空襲の犠牲者を住民として追悼する営みも三庄町7区森神社下の防空壕前で始まった。実態が分っていたわけではない。時間がない、とにかく行動にうって出なけばならなかった。三庄という町は、それをあたたかく見守った。

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