空襲の子【40】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 九死に一生得た巻幡展男さん(中)

 前号で紹介した対談のなかで巻幡展男さんは、生死を分けた原爆病との闘いについて何も語っていない。ただ、「まあ、それから、暫らくの間は、近所のお寺で、原爆の落ちた広島の状況を説明していたもんだよ」としか話していない。そのことを姉の恵美子さんに告げると、「とんでもない、弟は何も覚えていないのだから」と、そののん気さに少々立腹の様子であった。


 そもそも原爆病とはどのような症状があらわれたのか。そのひとつの例を、広島原爆罹災者の綿密な体験日記を題材にした小説である「黒い雨」(井伏鱒二著)から引用してみよう。

 ―毎日、四十度の熱発、白血球二千、次第に肉が落ちて骸骨そのもの、生きた木乃伊(みいら)と化した。手首や耳のあたりの火傷はともかくも、背中の火傷が無性に痛かった。骨と皮ばかりでも痛さを知覚するものである。妻が言うには私の背中の火傷のあとは、さながらビフテキのように黒く固くなって、ぽろりとそのビフテキが剥げたときには、肉が深く抉れて肋骨が見えるくらいであったそうだ。(中略)
 衰弱は極度に達し、幾度も意識を失うようになった。心音消失、呼吸停止、背中に巨大な褥瘡(じょくそう)を生じ、膀胱粘膜も剥離して尿閉を来たす有様で、これがたすかると云う医者は義兄の院長を始めとして誰一人いなかった。診察に立ち会った医者はみんな私を見放していた。頭の毛は痂皮(かひ)と共に鬘(かつら)のようになってごっそり抜け落ちた。

 当時の因島は7月28日の空襲(巻幡家の屋根も機銃掃射を浴びた)直後で、夜は厳しい灯火管制が敷かれており、外部に一切の光が漏れないようにして看護がつづけられた。しかも真夏のことである。窓には暗幕がかけられ、息苦しい熱さであった。
 新型爆弾が原子爆弾と分るのはしばらく経ってからであって、その治療法など誰も知るはずがない。親戚の医者が往診で治療にあたったが、まったくの手探りであった。ペニシリンを大量に投与することで高熱を冷ますことが精一杯であった。
 昼夜を通しての看病には母のミツノさんと姉の恵美子さんがあたった。髪の毛が抜け、枕にべっとりと付着した。全身が水泡だらけになった。その痕が疵になることを心配し、水泡が潰れないようにと神経を使った。今でも弟の顔を見ると「疵にならなくてよかった」というように、そのときのことが思い出されてならないと語る恵美子さんである。
 相当の期間を経て快方に向かった。島ののんびりした環境も味方した。やがて復学し、旧制山口高商に進んだ。大阪大法経学部に入学。昭和28年卒業。被爆手帳は貰わなかった。手続きをしたのは比較的最近のことであったという。その手帳を所持していたら就職しにくい時代であった。結婚して最初の子どもが生まれたときは、ほっとしたよ、と心情をもらしてくれた。やはり夏になると体調が優れないともおっしゃる。
 昭和33年、設立間もない関西テレビ放送に入社。平成9年社長に就任した。現在、名誉顧問の職にある。

被爆し廃墟と化した広島一中校舎

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