ふるさとの史跡をたずねて【209】溝梁完成記念碑(因島土生町荒神区)

溝梁完成記念碑(因島土生町荒神区)

以前にも書いたが海を陸地に変えるのに二つの方法がある。一つは埋め立てで、もう一つは干拓である。前者には大量の土が必要だから近くに大きな山がないといけない。後者では満潮時には海水面より低くなるので一時的に水を貯めておかなければならない。そのための池を因島では塩待ちとかタンポと呼んでいるが、一般的には潮廻しという。そして干拓地にとって邪魔な水を、清濁に関係なく悪水と呼び、海水面が下がったら樋門から排水する。また、干拓をすることを開発と呼んだ。だから干拓地が新開と呼ばれる。

さて、ナティーク城山から、荒神社へ行くルートは村上水軍の史跡巡りで避けて通れないところである。その荒神社への長い石段の手前、右側に立派な石碑がある=写真

余談ながら、この辺りに林芙美子が住んでいたと書いてあるものもあるが、確証が得られないので、今回は断定はしないことにしよう。

いつもは、麻生イトさんの名前がある、という程度で済ますのであるが、今回は内容に立ち入ってみよう。碑文はまことに興味深い。

土生地区は開拓(干拓のことだろう)して日が浅いのに人家が急増したが流水溝梁ができておらず、村井清松村長、佐々部優巡査部長、それに麻生以登さんが憂えて相談していたところ、大阪鐵工所初代因島工場長の専務取締役木村鐐之助氏が千円を寄付して下さり事業が遂行できた。また平木和太郎衛生組長が労を厭わず工事監督に挺身して完成できた。それらの人々の名を記して住民と共にその徳に感謝したい。およそこのようなことが記された石碑が、大正5年夏に設置された。

石段を登って荒神社の境内から町並みを眺めてみよう。大正5年以降も陸地は広げられたことであろうから、海側の一部分は当時はなかったと思えばいっそうよくわかるだろうが、傾斜地が終わる部分と海との間が狭いことに気づく。

海に近い方では潮廻しの水かさが上がると多くの家の近くまで上がってきたことであろう。これを避けるためには深くて幹線となる大きな溝と、数軒分の排水を集める浅い小さな溝の二段構えにしたらよいことは、土木に関しては全くの素人である私でもわかる。

大正3年の土生村人口4146名が大正7年には11864名になり、土生町になっている。都市基盤の整備が追いつかない時代であったことが想像できる。なお、物価は変動するが、理髪代金、大工工賃では約2万倍になっている。

写真・文 柏原林造

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