森清範管主講演会

11月3日午前10時尾道国際ホテルにて、清水寺 森 清範 (もり せいはん)管主(かんす)「観音の心をわが心に」と題して講演がありました。
森 清範 管主と言えば、12月12日に一文字で一年を表す、「今年の漢字」世相漢字を揮毫している方です。
管主の今年の予想では「郵」・「改」か、「刺」?
御坊のお言葉では、予想しても外れてばっかりとのこと。
虎の字の、跳ねるところを撥ねていないと指摘を頂いたが、撥ねると墨が飛び散って、法衣が汚れそうなので止めたのだとのこと。
とっても気さくでユーモアーのある方でした。

講演内容
○清水寺では33年に一度御開帳が行われ、秘仏が公開されるが、開帳とは心を開くことに通じ、自分の心を開いて観る事も大切。

○世の中ブランド志向であるが、ブランドとは「一流品」である。一度流れた品とも読め、心を奪われるのはどうか。

○釈迦はお生まれになったとき「天上天下 唯我独尊」と言われたそうだが、宗教は一人一人の人間の尊厳を尊ぶもの。お経は釈迦の死後100年ぐらい後に、教えを後世に正確に伝えるために書かれたものです。そのお経の解釈の違いから宗派が分かれていった。

○4~5世紀「唯識」思想が生まれた。アーラーヤ いろいろな知識などの集積‥‥記憶 ヒマは雪のことで、「ヒマラーヤ」で、白い雪が積み重なった物ということでヒマラヤ山。

○仏教用語で、積集(しゃくじゅう)→身・口・意→種子(しゅうじ)

○アーラーヤは中国語で「蔵」→観・音

勿体無いという言葉が世界で注目されている。日本語の勿体無には、物だけでなく生命の意味が込められている。

人間は生まれ持った本能と、生後身に着けた知識とで自我が作られている。
その集まったものが「蔵」である。
「蔵」に無いものを観たり、(音)聞いたりしても、理解できない。
猫に、魚と小判を撰ばせると、小判を撰ばない。小判の価値が知識に無いからである。
どんなありがたいものをみても、人間も知識に無いものであれば、それの価値が分からない。

講演終了後、アトラクションとして、HOT華連の「ええじゃんよさこい」が披露されました。

尾道市の浄土寺前管主をはじめ、瀬戸田町長・因島商工会議所会頭・松浦県議など多くの、参加がありました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください