英軍捕虜は何を見たか【16】四章 戦争の終結

ケリー氏の著書の12章「因島空襲」の記述が終了しようとしている。その間際に彼は、とってつけたように広島と長崎の原爆投下について書いている。

その内容は、因島空襲の描写とは打って変わって、まったく真実味がなく、説得力を欠いている。

因島空襲においては、連合軍の一員であるにもかかわらず日本側に捕らえられているが故に捕虜たちも攻撃対象になった。ケリー氏は好むと好まざるとにかかわらず攻撃される立場から、自らの体験した事実をありのまま記そうとしたのである。

しかし、原爆についての言及においては何故かそうした真摯な姿勢がまったく見られない。そもそもケリー氏ら捕虜たちは、広島市への原爆投下を知らなかったようだ。「8月6日」には彼らは因島の収容所におり、原爆投下の情報を一切知らされなかった。彼がその事実を知るのは解放されて後であり、帰国しなければ詳細は分かるはずもなかったであろう。

帰国したケリー氏はかなりの質問を受けたようだ。

―原子爆弾に関して、われわれがその音を聞いたかですって?それへの返答は、「分らない」だった。近くに落とされた一発の大型爆弾が、おそらく30マイル離れて落とされた原子爆弾の音のように少なくとも響いたのであろう。

因島にいて広島への原爆投下の音響を聞くことは不可能だったろう。だが、その遠くの閃光を因島から目撃した人はいるという。

ケリー氏たちが終戦直前の八月に目撃ないしは体感したのは8日の福山空襲と、5・6日の今治空襲であると思われる。いずれもB29による焼夷弾無差別攻撃で、市街地は焦土と化した。当然にもその炎は各地で巨大な爆発を引き起したことであろう。

原爆投下の事実さえ知らなかったケリー氏は、とんでもない結論を唐突に導きだすのである。

―しかし、広島市と長崎市に落ちた原子爆弾が無数の人を死なせたということは、私には分かる。しかし、それは日本に降伏の言い訳を与え、もっと多くの人を救った。両側の大量虐殺を巨大にし、真っ先に捕虜が死ぬようにした日本に攻め入ることは必要だった。

この結論を読んだ私は、ケリー氏に失望した。英軍捕虜収容所が広島市にあり、そこで彼が原爆を体験したとしても同じ結論を展開しただろうか。否である。

原爆が日本の降伏を引き出したという論理も戦争の実態を無視した暴論である。

ケリー氏自身も述べているではないか。

―おそらく、因島におけるもっとも好戦的愛国主義者にさえ、7月28日の空襲が日本は戦争に負けたことを明らかにしたからだ。

―因島にはもう空襲がなかった。もし攻撃したらそれは努力と資源の無駄使いだったろう。(中略)これは無論、日本全体で今では実際に起きていることだった。

7月の時点で日本側の敗北は必至で、日本の降伏は時間の問題となっていた。2度の原爆投下なくしても戦争は終わっていたのである。

捕虜たちを皆殺しにする戦意と力など日本側にあろうはずもなかった。もし、そうした惨事が起きるとしたら、米軍による新たな因島の造船所への絨毯爆撃によるものであったに違いないのである。

このこともケリー氏が前述したところである。

(青木忠)

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