英軍捕虜は何を見たか【2】第一章 証言者

因島捕虜収容所が開設されたのは、私の生まれるほぼ2年前の1942年(昭和17)11月23日である。場所は、因島三庄町八区の海岸沿いである。その正門は道路をはさんで石田芳栄堂の前にあったという。私の生家から150メートル位のところである。

現在はその痕跡もなく、収容所跡地は住宅地域に変貌している。その面影は、占領軍が撮影した写真、捕虜が描いたスケッチに残されている。

ここには最終的に185人の捕虜が収容され、日本の敗戦まで日立造船因島工場などで強制労働に就かされた。ジャワから到着した捕虜のなかから、1カ月も経たないうちに8人の死者が出た。つづいて解放されるまでに4人の死者がでた。いずれも病死とされている。

敗戦後、因島収容所の職員3人がBC級戦犯とされた。捕虜虐待の罪である。因島三庄町は、捕虜虐待の地という不名誉を刻印されることになった。

私が故郷の捕虜収容所という歴史的事実を知ったのは、1997年(平成9)に始まった「アガペ・心の癒しと和解の旅」がきっかけである。元英軍捕虜たちが、因島にやってきたのである。虐待で傷ついた元捕虜の心を癒し、日本人との和解をすすめることをめざした訪問である。

私は、日本側の歓迎チームに誘われて元捕虜との交流パーティーに出席したのだが、強い違和感を持った。元捕虜が語気を強めて語る、「原爆投下によって自分たちも日本人たちも助かった」という露骨な原爆肯定論を容認できなかったからである。

さらに私が心を痛めたのは、元捕虜を迎えた日本人たちが平然とそれを容認し、それに同調していることであった。「連合軍の捕虜を虐待したから原爆が投下された」という論理である。

パーティーでは、因島が空襲を受け、多くの犠牲者が出た事実に言及する者は皆無だった。そもそも日本人歓迎チームはその事実さえも知らない。元捕虜たちも覚えていないはずはないのだが、忘れたかのごとく一切ふれようとしなかった。

第二次世界大戦下に因島に何があったのか。私はその調査にいっそう真剣になった。2007年7月28日、初めての島をあげた因島空襲犠牲者慰霊祭を開催した。その際、イギリス大使館、韓国領事館とも連絡をとりながら、因島で亡くなった英軍捕虜たちと、空襲の犠牲になった朝鮮半島出身者への慰霊も同時に行なった。

私の心境に変化が生じた。元捕虜のジョン・フレッチャー・クック氏の著した「天皇のお客さんー書かれざる戦史―日本捕虜収容所」を読み直そうと思った。

著者はイギリス空軍将校としてジャワで日本軍の捕虜になり、1942年から1年間、因島収容所で過ごし、四国の善通寺収容所を経て、日本の敗戦によって福岡県の宮田の収容所で解放された。

読めば読むほど引き込まれていった。優れた体験記であるばかりか、ドキュメンタリーでもあり、文学作品でもあるように思えた。私の読む視点は定まっていた。著者が、因島における空襲情勢をどのように記述しているかであった。次の描写がある。

―土生へ着くとすぐに、収容所では明かりを洩らすことを禁じられ、窓いっぱいに厚いシャッターが取り付けられたが、それが空襲に対する不断の用意だと聞かされると、いやでも私たちの士気はあがったものである。空襲に際しては、ベットぎわに腰を下ろし、別命あるまで待機せよとも言われている。

(青木忠)

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