空襲の子【52】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越えて 敗戦そして占領

わたしは敗戦を生後およそ10カ月で迎えた。したがって米空軍の空襲によって死にかけたことや敗戦について実感がまったくない。しかし世界史的な事件である敗戦を直視することなくして一歩も前に進めない。実感がないところで考え、書きしるすことは大きな苦痛をともなうが、躊躇は許されない。

第2次世界大戦―太平洋戦争は決して過去のことではない。その大きな傷は決して癒えることはない。ところで、戦前と戦後とはまったく違った時代なのだろうか。たしかに両者の間には明確な断絶がある。しかし同時に両者同士には継続性が明確に見て取れるのである。

平和がやってきたというものの、平和憲法の名のもとで日本がかかわった戦争が止んだためしがない。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争と世界大戦とは形を変え、戦争は継続してきた。民主主義の名のもとに差別事件や人権侵害は温存されたままである。あれほど悪法と言われ廃止された治安維持法ですら、破壊活動防止法として復活した。最近の社会問題の深刻化は戦後という時代のいきづまりを明確に示している。

こうした戦後がはらんできた問題性の根底には、敗戦のあり方があるのではなかろうか。日本国民は自覚して敗戦を迎えたわけではない。圧倒的な連合国側の軍事力のまえに、有無を言わさず敗戦を強制されただけである。日本は自ら戦争を仕掛けておきながら、自ら戦争を終了させることができなかった。

戦争責任の問題における大混乱は没主体的な敗戦のとらえ方に起因している。

そのひとつが、マッカーサー元帥の到着をまえにして、東久邇稔彦首相が語った「一億総懺悔」である。「ことここに至ったのは、もちろん政府の政策もよくなかったからでもあったが、また国民の道義のすたれたのも原因である。この際、軍官民、国民全体が徹底的に反省し、懺悔しなければならない」というものである。

その対極にあるのが、国民は一部の指導者にだまされただけだとして、すべての戦争責任をA級戦犯などになすりつける考え方である。だがこの論理では、総力戦のもとでほとんどの国民が戦争に積極的に協力した事実を説明できない。

こうした戦争責任をめぐる混乱は、連合国側の占領政策遂行を容易にさせた。「鬼畜米英」を叫んでいた大半の国民は、占領軍にたいして日本国民を軍国主義から解放する「解放軍」という評価さえ与えた。

多くの国民は、平和や「民主主義」をフランス革命のように流血の革命によって闘いとるものとしては理解しなかった。逆に戦勝国に従順さを示すことで、与えてもらえるものだと理解した。戦後民主主義とはそのようなものだった。それは、日本人が闘いとったものではなかった。それは戦勝国の日本人への善意のプレゼントなどではなく、戦後世界の政治・軍事体制作りの一歩であると見破った国民は、皆無であったのではなかろうか。

厚木飛行場に降り立ったダグラス・マッカーサー

 日本占領連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは昭和20年8月30日、神奈川県厚木飛行場に降り立った。

[ PR ]因島で家の解体のことなら「吾城」へ

当社には家の解体専門の部署があり、お客様のご希望に合わせた、よりよい施工内容をご相談・ご提案させていただいています。

空き家になった時のそのままの状態で、家具や食器、衣類などの処分から、解体後の用途に応じて砂利敷きや、アスファルト舗装等の工事までを一貫して施工します。

丁寧かつ迅速な施工で、因島はもとより島嶼部や尾道近郊においても、幅広く、ご好評いただいております。

【対応住宅】
木造住宅 / RC鉄骨 / 軽量鉄骨住宅 / アパート / 工場 / マンション

【お問い合わせ】
有限会社 吾城(ごじょう)
広島県尾道市因島重井町5800-42
TEL0845-26-2282