空襲の子【44】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 韓国領事との面会

 因島空襲犠牲者慰霊祭まで1カ月をきった7月2日、わたしは駐広島大韓民国総領事館に金辰植領事を訪ねた。空襲で朝鮮半島出身者が亡くなったことについて説明するためであった。


 当時、朝鮮人徴用工の日立造船因島工場への動員は3次にわたって行なわれ、200人から300人いたと言われている。同工場との縁が強かった土生町・善行寺の故入澤弘生前住職はある回想記のなかで、

「被爆者に朝鮮の方が3名おられました。遺骨は、戦後20年を経て、昭和40年、韓国の遺族に渡しました」

と述べている。この連載にも掲載させていただいたが、因島中庄町在住の空襲体験者である星野正雄さんは、

「同一工場内で逃げ遅れた死者は数名朝鮮人労働者玉掛工」

と証言している。金領事は、

「慰霊祭はこれからもつづきます。韓国人犠牲者について、もっともっと調べてください。これは宿題です」

と語った。空襲被害の実態は依然としてはっきりしないことが多い。例えば犠牲者の人数について、各報道機関もバラバラである。日立造船因島工場は昭和23年、空襲当時の善行寺住職に感謝状を贈っている。そのなかで犠牲者の人数にふれている。

 ―「昭和20年7月、米国機当所空爆の際は自ら寺院を開放して死者60有余名を収容し、納棺、火葬に至るまで献身的なる御尽力を受けたるは、今も猶感謝感激に耐えざるところであります。」

 この60有余名は即死者の数である。しかも正規の従業員が中心である。おそらく下請などの犠牲者は造船所のシステムとして、本社は掌握していないだろう。多くの負傷者がでて因島病院にかつぎこまれたが、重傷者はそこで死んだ。この数は、含まれていない。どの空襲においてでもそうであるが、軍人の死者は表にでていない。空襲時、入港していた艦船から激しい反撃があったと言われており、軍人の死傷者が相当数でたと考えるのが自然である。
 以上のことから判断してわたしは、「働いていた工員さん、入港していた軍人さんなど100人をはるかに超えている」と語る社葬責任者の三浦勉さんの説が真相に迫っているとみる。
 さらにそれに加えて米軍は、三庄町の7区・8区において民家への空襲を意識的に行い、17人と思われる犠牲者をだした。
 次は犠牲者の氏名のことであるが、その大半がはっきりしていない。おそらく日立造船は「60有余名」の犠牲者名簿を所有していると見られるが、いまだ公表していない。社史に「数名の死傷者をだした」と明記していることが、公表の妨げになっているのかもしれない。ただ6年間にわたって調査をしてきた実感であるが、犠牲者の圧倒的多数が島外の方々と思われる。
 即死者の場合、犠牲者のうち因島出身者の亡骸は自宅に運ばれ、自宅で葬儀が行なわれている。病院でなくなった因島関係者の重傷者の場合、肉親がかけつけてきている。土生町のある寺院関係者との会話のなかで筆者は、「因島の調査は広島の原爆犠牲者の調査より難しい。それほど島外の犠牲者が多い」と暗示にとむ助言をいただいたことがある。困難は承知の上である。調査はこれからもつづく。
 さて今回で「因島空襲と青春群像」を終了し、次号から、「空襲の子」第2部として、「巻幡家の昭和史」―公職追放を越えて―の連載を始めたい。

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