英軍捕虜は何を見たか【17・完】おわりに

テレンス・ケリー氏の著作「日本人と暮らす」の12章「因島空襲」に出会うことによって、私が知りたくとも知りえなかった大戦末期の因島について、肌身で感ずることができた。これは非常に大きな成果だった。

ケリー氏の著書を読みながら私は、ある種の空しさと格闘しつづけてきた。それは、「英軍捕虜にここまで出来たのに何故、日本人には出来なかったのか」という想いだった。ケリー氏の記述に戦勝国の驕りはなかった。自らの体験を忠実に綴っている。ただそれだけでないか。なぜ日本人はそれをしようとしなかったのか。

日本人は、因島空襲という歴史的事件を直視することが出来ず、それを忘却することで戦後を生きてきたのである。日本は戦争に真に敗けたのだと思った。

私は改めて決心した。「戦争末期の因島」をテーマに徹底的に書いていこうと覚悟を固めた。そうすることで、戦後70年を生きてきた人間ゆえの精神的空白を少しでも埋めることができるのではないかと確信した。

この作品を書き上げることで、ふたつの歴史的事実を知った。そのひとつは、戦争末期――とりわけ1945年1月から敗戦の時期の因島がどのようなものであったか、認識が決定的に深まったことである。

当初の私の理解は、激しい空襲があった3月19日と7月28日の事がらに集中した。それはそれで非常に大切なことなのだが、戦争末期をおよそ8カ月の期間として把握することが必要だったのである。

1945年に入るや因島とその周辺に、空襲必至の情勢が到来した。その時がいつ来るか、恐ろしく緊張した日々の連続だったに違いない。最初の空襲があった3月19日以来、次はいつかと戦々恐々たる状況であったのであろう。連合国側の航空機の飛来は常態化し、警戒警報や空襲警報のサイレンも日常化した。因島と周辺島しょ部は、戦場と化したのである。

ふたつには、因島への第3の空襲――おそらくいっそう壊滅的な空襲が計画されていた事実を初めて知ったことである。ケリー氏は、戦争が終わり、解放され、故郷への帰途のシドニーで、戦慄すべき事実を知らされた。ケリー氏の記述を再び引用しよう。

―土生ドックの大規模な攻撃もすでに予定されて記入され続けられ、日本の降伏―日本はそれをしたが―がなければ確実に実行されるところであった。

日本が降伏した3日後の8月18日が、因島工場の第八ドックの絨毯爆撃の予定日として指定されていたという。ケリー氏は、それが2、3日早く起これば、「われわれの誰も日本を去ることができなかったであろう」と述べている。

当時の因島には、英軍捕虜たちはおよそ200人いた。その捕虜たちさえ全滅するような空襲とは、どのようなものであったか、想像するだけでも戦慄が走るというものである。日本人はどうなったであろうか。造船所とその周辺の町は消滅したかも知れない。

工藤洋三氏の「中小都市空襲のために選ばれた日本の180の市街地」によれば、107番目に尾道市、129番目に三原市が名簿に上がっている。8月8日の福山大空襲につづいて尾道と三原も襲われたであろう。

私は、ケリー氏によって因島空襲の持っている重みと意味を教えられたのである。それは決して、瀬戸内海の小島で起きた単なる偶発的な事件ではなかったのである。絶体絶命の危機だったのである。

(青木忠)

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