芸予に残る被爆犠牲者の足跡【5】

終戦70周年記念特集 弓削商船高等専門学校学芸部の調査・研究
芸予に残る被爆犠牲者の足跡【5】

商船学科 濱本桂太(4年)、森光勇介(4年)、滝川鉄也(3年)

続・赤尾四郎さんの話

やっと海田市まで戻り、朝乗ってきた列車に再び乗り、尾道駅に夜中に着いた。

結局6日から7日まで一睡もせずに朝一番の定期船で因島に帰り、父に事情を話したところ、「先生が心配されていると思うので、もう一度広島へ行くように」と言われ、折り返し7日午後の船に乗り、尾道から再び列車に乗り込んだ。

8日早朝、列車は広島駅の300メートル東側に止まってしまい、線路に飛び降りてそのまま歩くと、駅前は焼け野原で、2、3のビルの残骸が残っているだけで、宮島まで見渡せた。御幸橋まで行く途中には、ところどころにテントが張られて、中に多くの負傷者が収容されていた。

御幸橋の欄干は爆風で、南側に倒れて、川の中には多くの死体が蝋人形のように浮いていた。水を求めて川に下りて、そのまま力尽きたのだろう。やっとの思いで、南千田町の寮にたどり着くと、寮は全壊しており、呆然としていたら、焼け爛れた顔が私の名前を呼ぶので、よく見ると松下秀一郎さんだった。彼は「家につれて帰ってくれ」と言うが、私は声も無く息を呑むばかりだった。

妹尾先生に会って、遅れてきたことのお詫びと自分の無事を報告した。妹尾先生も日赤病院のところで被爆していた。

岡野さんは上半身に大やけどを負って、校庭の暗い防空壕の中に横たわっていた。赤尾さんが「岡野君」と声をかけると、彼はなぜか「赤尾君すまなかった」と謝った。岡野さんは、顔は変りは無かったが、上半身の火傷が熟れた柿のような状態だった。

松下さんと岡野さん、宮地さんは、8月5日夜遅く帰寮して、6日早朝に市役所裏の作業現場に集合し、約140人の友人たちとともに被爆した。

B29爆撃機が、広島上空からパラシュートで原爆をゆっくりと降下させ、作業していた中学生たちは一時作業の手を止めて「何が降りてくるのだろう」と、上空を見上げていたら、8時15分に炸裂、物凄い閃光とともに被爆した。

宮地さんは、被爆後、作業現場から引き上げる途中で力尽き、そのまま道路で倒れているところを、軍のトラックでそのまま似島に運ばれ、2日後に息をひきとる前に自分の姓名と住所を告げたということである。

怪我をしている松下さんと岡野さんは、妹尾先生の奥さんにお世話になっていたが、赤尾さんに「1日も早く家に帰りたい。連れて帰ってくれ」と訴えるが、帰るとしても岡野さんはとても歩ける状態ではなく、赤尾さんは岡野さんに「帰ったらすぐに連絡するから…」と納得してもらったものの、岡野さんとはこれが最後かと寂しさがこみ上げてきた。やむなく松下さんを先輩の麓忠義さん(因島出身の3年生)と一緒に連れて帰った。

8月8日午後3時ごろに南千田町の寮を後にして、向洋駅に向って夏の日差しを背に浴びながら、麓さんと交互に松下さんを背負いながら、徒歩で御幸橋を渡り、途中兵器廠(現広島大学病院)に立ち寄り、松下さんに応急手当をしてもらったのだが、薬が無く、少しでも楽になればと、チンク油を顔一面に塗ってもらって、さらにその上から白い包帯を目、鼻、口を開けた状態でぐるぐる巻きにしてもらった。

その後、焼け野原となった市内を3時間くらいかけて松下さんを背負いながら歩いて、疲労困憊してようやく駅に着いたとき、運良く上りの列車が発車寸前で飛び乗った。

列車は超満員で、立ち席の隙間も無いほどだったが無理やり押し込んで松下さんが心配だったが、これ以上駅で待つわけにはいかず仕方なく松下さんをかばっていたら、年のころ40歳くらいだったと思う年配の女性が松下さんのために席を譲ってくれた。

(つづく)

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