村上水軍の「軍楽」の研究【6】第一章 村上水軍の概観

それと共に、幕府の討伐対象であった海賊は、海の交通を担う警固者となった。貞和五年(1349)に、伊予弓削島荘へ幕府の使者が派遣される際にその警固を「野島」に頼み、その代償として「酒肴料」という名目で警固料を支払った、という記録がある。この「野島」が、三島村上水軍の一つ、能島村上氏の史料上の初見とされている。(山内2005年34-35)

つまり南北朝時代には、安全保障者としての海賊として公的に認められていたということがわかる。


室町時代から戦国時代にかけては、同族意識を持つ能島、来島、因島の三島村上氏が組織化を進めた。この組織体を、河合正治は『内海中央部の海賊衆――伊予衆の北上と安芸小早川氏勢力の南下』の中で三島村上体制と呼んでいる。そしてこの頃から大名と主従関係を結ぶようになり、来島村上氏は河野氏と、因島村上氏は山名(※3)大内(※4)、毛利氏等と関係を持つようになる。能島村上氏は河野氏を主家としてはいるが、河野氏からの知公地はほとんど見られず、他にも関係を持つ大名はいたが、後に毛利氏から知公地を与えられるまで、これらの大名たちから知公地を与えられている形跡はない。(河合出版年不明14-16)

大名との繋がりが解る例として、弘治元年(1555)9月の厳島合戦がある。この合戦では安芸・備後両国を支配下に入れて領国支配のいっそうの拡大を目指す毛利元就(※5)の軍と、主君大内義隆を倒して防長の支配者となった陶晴賢(※6)の軍とが安芸厳島とその周辺海域で衝突した。この合戦は毛利氏が勝利したが、その大きな理由の一つに、村上氏をはじめとする海賊衆の参戦があげられている。そしてこれを契機に海上軍事勢力としての村上氏の声望が一気に高まり、これ以後、毛利氏との結びつきを強めていくとされている。しかしこの厳島合戦においてはわからないことが多く、研究者の中には厳島合戦に村上氏は参戦していなかったという非参戦説をとる人もいる。(山内2005年58-59)

※3 山陰地方の大名。
※4 周防国(山口県の前身)を中心に支配した大名。
※5 安芸国を中心に中国地方を支配した大名。1497-1571。
※6 周防国の大内氏に仕えていた武将。1521-1555。

神戸大学国際文化学研究科 山本詩乃

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