村上水軍の「軍楽」の研究【7】第一章 村上水軍の概観
毛利氏との結びつきを強めていた三島村上氏であったが、毛利元就が死去した後、跡を継いだ輝元と織田信長の対立が日に日に激しくなっていき、そして織田信長は瀬戸内海賊衆の取り込みを図った。これによって来島が、毛利氏より離反することとなる。能島、因島にもその手は及んだが、両村上氏は毛利方にとどまり、一門は引き分かれることとなった。そして天正十三年(一五八五)に秀吉による四国攻めがあり、伊予の大名河野氏が滅亡して、瀬戸内海の海上秩序が大きく変わることとなった。(山内 2005年130 -131)
その後、天正16年(1588)に豊臣秀吉によって刀狩令と共に出されたのが海賊禁止令である。これによって、海上に関所を設けて通行税を取り立てる行為は海賊行為として禁止され、それを防ぐために海民の調査が行われることとなり、海賊はもとより、それを生み出した給人や領主も責任を問われることとなった。これにより、三島村上氏による瀬戸内支配は終わりを告げることになった。
第二節 村上水軍の兵法書の成立
二・一 東京大学駒場図書館に所蔵されている兵法書について
本節では、村上水軍が残したと言われている兵法書について述べる。まず兵法書とは、戦の方法や戦略・用兵の法を説いた書物のことである。代表的な例としては中国の『孫子』や『呉子』、宮本武蔵が著したと言われている『五輪書』等がある。
村上水軍も兵法書を残しており、東京大学駒場図書館のホームページの大日本海志編纂資料のページでウェブ公開されている。
http://gazo.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/kaishi/about.html
ホームページの記述によるとこの資料は明治16年(1883)に海軍省が海軍彙編、海防彙編、造船彙編、海運彙編、通商彙編により成る日本海志の編纂を企て、水軍・外交・海防・造船・海運・海外通商などに関わる資料の収集に鋭意努めた、とされている。しかし日本海志の編纂は陽の目を見ず、蒐集された資料は大日本海志編纂資料として海軍省の海軍文庫に収蔵された。またこれらの資料は、所蔵者から原本を借り出して写本の作成をすることを原則としていたため、そのほとんどが写本である。
神戸大学国際文化学研究科 山本詩乃
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