村上水軍の「軍楽」の研究【5】第一章 村上水軍の概観

潮の性格を熟知していないと、このような難所を抜けるのはなかなか容易ではない。しかし船折瀬戸は芸予諸島を東西に抜ける最短コースである。このように海上交通の要衝であり、かつ海の難所であるところこそ、海賊の最も活動しやすいところであった。航行する船舶から通行料を徴収することが海賊の重要な生業の一つであることからしても、このような場所を拠点とするのは都合が良かったのだと思われる。また、海賊は海の難所の近くに城を築き、活動の拠点としていた。その特徴として、周囲一キロメートル前後の小さな島全体を要塞化しているという点である。山内はこのような城を海城と呼んでいる。海の難所に城があると、他の船はなかなか近づくことができない。潮が掘の役目をしているのである。(山内2005年15-18)


二つ目の要因として、そこが豊かな海産物の産地であり、その海産物の輸送に端を発して海運業が発達したことを挙げている。特に重要な生産物としては塩が挙げられる。もちろん塩だけではなく、米、マメ、小麦などの穀物、鰯、赤鰯などの海産物、そして鉄も運ぶことがあった。これにより海賊は、自分たちの所有する船舶を転用して自ら運業にかかわったり、内海を往来する船舶に上乗りすることによって警固料を徴収したりするようになった。(山内2005年18-22)

三つ目に挙げられているのは、芸予諸島が大名権力の境界領域であったという点である。芸予の国境線は幕府や朝廷はもちろん、安芸国(広島県の前身)と伊予国(愛媛県の前身)の芸予両国の守護などの意向とも無関係に、在地勢力の思惑によって変更されている。そのようなことが可能であったのは、ここが、守護や戦国大名など一国統治を目指す政治権力の支配力が及びがたいところであったからだろう。戦国時代には 毛利氏や 河野氏がこの海域の支配にかかわったが、それも強いものではなかった。このように芸予諸島は、芸予両国の境界領域に位置し、どちらの側の大名権力の統制力もそれほど強くなかった。そのような政治条件が、海賊の成長を促し、活動をしやすくさせたといえる。(山内2005年22-24)

このような場所で発展した村上水軍であるが、実際に歴史上に姿を現し始めるのは南北朝時代からである。それまでは瀬戸内海を中心に横行する略奪者であったが、次第に独自の組織を持つ武装集団となっていった。

神戸大学国際文化学研究科 山本詩乃

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