ふるさとの史跡をたずねて【190】下海吉十郎像(今治市上浦町瀬戸)

下海吉十郎像(今治市上浦町瀬戸)

芋地蔵のことを語るにはまず大三島に行かなければならない。上浦町の向雲寺には、下海(あさみ)吉十郎翁の顕彰碑の隣にブロンズ像がある。杖をついて胸の前に下げた鉦(かね)を叩きながら諸国を行脚する姿である。全国66か国の各国1寺に、写した法華経を納経して回る修行である。こういう人を六十六部行者、あるいは略して六部(りくぶ)行者と呼んだ。

背中に籠を背負っている。笈(おい)という。竹冠がついているように竹製である。『勧進帳』の弁慶らが背負っていたのは直方体であったが丸いものもあった。山伏や高野聖なども同じような笈を背負って諸国を遍歴した。この笈の中には旅行道具や衣類などが入っていたのであるが、仏像が一体あった。これを「守り本尊」という。山伏には不動明王が好まれた。滞在先で仏像を彫って奉納したそれを胎内仏とした。仏像は重いのでだんだん小さくなった。のちには「不動明王」とか「弘法大師」とか紙に書いて入れるだけになった。四国遍路の「同行二人」というのも、そこからきていると私は思っている。

さて、この像の近くに住んでいた大三島の住人下海吉十郎氏は正徳元年(1711)六部行者として、薩摩国伊集院村の農家に泊まった。その時、サツマイモをご馳走になった。栽培法などを聞き種芋を所望したが、薩摩藩は国外持ち出しを禁じていた。それをどのように持ち出したかは、提供者も本人も法を破ることになるので、伝わっていることをそのまま信じることはできないが、苦労があったことと思う。その経緯はとにかく、国外持ち出しに成功し、大三島での栽培に成功した。そして島内はもちろん、近隣の島々へ広めた。

生口島あるいは他の島々経由も考えられるが、海上を通ってサツマイモは因島へ伝わったのではなかろうか。

というのは方言分布から見ると伯方島までが因島と同じ圏内に属する。これは因島村上水軍の支配地が伯方島にあったということもあるかもしれないが、潮の流れによる流通が原因だと思う。大三島橋と多々羅大橋の下を流れる満ち潮は伯方島のトウビョウバナのところで合流し、岩城島で再び南北の流れに分かれる。北側の流れが因島とぶつかる。これが因島へサツマイモが来た道である、と考える方が自然だ。

(写真・文 柏原林造)

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