空襲の子Ⅱ【36】十年間の調査報告 因島空襲と行政(7)

 私は2009年6月下旬、倉敷市水島支所にいた。そこは水島臨海工業地帯の只中にあった。JR倉敷駅で臨海鉄道に乗り換えて行くのである。


 毎日新聞福山支局の前本麻有記者が、6月22日から支所で「戦災きろく展」があると教えてくれた。水島空襲のあった日に合わせておよそ一週間、毎年行われている。
 1945年6月22日午前8時36分、米軍B29(びーにじゅうく)110機は、2万人超の従業員を擁する三菱重工業水島航空機製作所に空襲を行い、飛行機や工場施設などを壊滅させた。その日は公休日で出勤者が少なかったこともあり、付近の住民を含めて被害は、死者11人、重傷者11人、軽傷者35人に止まった。
 水島空襲に強い興味を惹かれた。因島との共通性を感じたからだ。巨大な軍需工場としての企業への攻撃であり、同時に付近の住民にも死者が出た。では行政と企業は、この空襲にどのような対応をとったか。さらに詳しい資料がないのかと尋ねたら、本庁に訊いてくれと言われ、倉敷市役所に向かった。担当者が220頁の同市が発行した「水島の戦災」を持ってきてくれた。残部はないということで全頁コピーとなった。
 「発刊のことば」で滝澤義夫倉敷市長(当時)は次のように強調している。
―この空襲は、岡山空襲に匹敵する大規模なものでありましたが、当時の社会情勢を反映してか新聞報道もなく、また、死傷者など人的被害も少なかったため、知る人も少なく、人々の記憶から忘れ去られようとしています。
 倉敷市をあげて記録し、形にすることで、水島空襲の実相を市民に伝えようとしたのである。歴史の渦に、その悲劇が埋没させられることへの危機感が溢れている。
 「あとがき」に出版の苦労が記されている。
―幸いにも、当時の写真を多数保存されていた三菱自動車工業(株)水島自動車製作所をはじめ福田史談会、横浜の田部明氏、笠岡の藤井實氏、牛窓の正本安彦氏ほか多くの方々の御協力により、貴重な資料・写真・体験談等を収集できました。
 ここで最も注目されるべきことは、該当する企業から写真が全面的に提供されたことである。廃墟になった工場の全景、骨組みだけとなった工場群、無残な姿をさらした多くの飛行機の残骸、爆弾でできた池のような巨大な穴。壊滅状態となった工場が数々の映像に収められている。住民の体験談も丁寧に集められている。
 本編では軍需工場内部の実態が克明に描写されている。そのなかに初耳の「職場特攻」という項目がでてくる。
―(前略)まだ、この当時には、警戒警報が発令されると、工場では操業をやめ全従業員が防空壕・安全地帯へ待避していたのでは、一機でも多くの軍用機を生産しなければならない時局に、その生産力は激減することになる。
 上空に敵機が飛んでいるのではないから、待避といっても、別に駆け足で急ぐわけでもなし警報が解除になって工場へ帰るときには、なおさら〝ぞろぞろ〟と歩いての往復であるから、待避のかなりの時間的ロスが生じた。
(中略)しかし、この避難行動は、戦局が悪化するにつれ、「職場特攻」として、警戒警報・空襲警報がでても避難せず、職場死守の方針が打ち出され、多くの職場がそれを実行させられた。そのためせっかくの警報も用を果たさず、もし爆弾が落とされれば、死を待つだけになるのである。
 日立造船因島工場の職場で死んだ多くは「職場特攻」であったのだろうか。倉敷市の「水島の戦災」から学んだことは、多かった。
(青木忠)

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