碁打ち探訪今昔四方山話【42】秀策改名のエピソード(6)本因坊家跡目の下心

跡目の跡目願い

二度目の江戸留学となる本因坊家預り弟子である安田秀策は三か年のうち毎年一段ずつ昇段という驚異の記録を残しました。天保14年囲碁姓名録によれば初段以上の有段者は全国で258人。そのうち四段は四家(本因坊、井上、林、安井)所属棋士のうち11人に過ぎません。その中に15歳の秀策がいるわけです。そして、その頃から「先手必勝、秀策流一、三、五、七」の布石研究に取り組んでいます。


こんな将来有望な棋士を本因坊家がほっておくわけがありません。第十二世本因坊丈和は病弱だった跡目丈策の跡目に秀和を後継者に決め、丈策は秀和の跡目に秀策を決めるという策を労しました。秀策にとっては大変名誉なことで留学生が代表選手になったような嬉しい話でした。しかし、これまで後援してもらった三原候浅野甲斐守忠敬に対する恩義、故郷因島の年老いた両親、尾道の後継者旦那衆のことなど考え合わせ、堅く固辞したようです。

諦め切れない丈和をはじめ丈策、秀和は当時幕府の寺社奉行であった脇坂淡路守に懇請して三原浅野候の本家筋にあたる広島藩主浅野斉鼎候の許しをお願いして跡目秀和の跡目が内定されるというややこしい手続きをととのえました。

こうしたことがあって間もなく弘化4年12月中旬を過ぎて当主本因坊丈策と隠居丈和とが3日の間をおいて相次ぎ病没。跡目の秀和が第十四世本因坊に、秀策を跡目として幕府に届け出ています。嘉永元年九月十六日(弘化5年2月28日嘉永と改元)秀策20歳秋のことでした。このことを寺社奉行脇坂淡路守を通して幕府に差し出した願い書が「本因坊家旧記」に残っています。

親 類 書
松平安芸守領分備後国御調郡外之浦百姓
一、父 桑 原 輪 三
右同領分 同国 同所 百姓
一、母 桑 原 八 三 郎(死)娘
右同領分 同国 同所 百姓
一、兄 桑 原 源 三 郎
松平安芸守領芸州豊田郡船木村百姓
一、妹 島 田 伊 之 劫 妻
右の外忌掛り之親類無御座候以上
嘉永元年九月十六日
本国
生国
桑 原 秀 策 印

この跡目願は2か月後の同年11月27日聞き届けられたと本因坊家に内報があり本因坊と跡目のお披露目の後日六段位をうけるわけですが、幕府への願い書に安田姓を名乗らず桒原姓を使用している。小糠三合あれば…という心境、郷愁の思いが偲ばれる。

(庚午一生)

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