碁打ち探訪今昔四方山話【38】秀策改名のエピソード(2)本因坊家跡目の下心
9歳で江戸・本因坊家に入門した安田栄斎。弘化元年16歳で2度目の帰郷。弘化3年17歳のとき三原城主浅野甲斐守より増禄の沙汰があり秀策自身江戸の家元を背負って碁界の頂点に立とうという野心はなかった。身分はあくまで三原藩士に準ずるもので、本因坊家にとっても「預り弟子」として遇していました。三原候も藩の棋士として自慢のタネとして応援をしました。
碁所不在のため十三世本因坊丈策より与えられた「二段格」の免許。(天保12年9月16日付)
秀策のような身分の碁打ちは全国にも多くいて、けっして珍しい存在ではありません。相撲の世界でも山陰の雲州松江藩から力持ちの青年を尾道の商家がスカウトした後の横綱陣幕久五郎などもお国自慢の一例です。もし、後世に残る「耳赤の一手」を生み出した井上幻庵因碩とのシリーズがなかったら秀策の人生の転機はどうなっていたでしょうか。
幕府碁所だった名人本因坊丈和の有名な言葉が残っています。
「これはまさに百五十年来の碁豪にして、我が門風これより大いに揚らん」と。
秀策が栄斎と名乗った幼少のころ、本因坊道場で打っているのを見て一言もらしたというのですが、世の中には天才少年が多くいます。百五十年来といえば元禄の道策名人以来という意味になります。江戸二六〇年の囲碁史で道策を「前聖」丈和を「後聖」と称しています。秀策に碁聖の名が冠せられたのは明治も半ばすぎてからです。
入門早々の十歳そこそこの幼年の打碁を見て将来が見通せられたか疑問が残ります。道場には他に天才少年もいるし、三原藩の預り弟子です。本因坊家には十三代丈策の跡目に実力ナンバー1の秀和がいたので、秀策が幻庵因碩に勝ってから誰の目にも大樹と見られたからだと思われます。ともあれ、本因坊家としては秀策のスカウトが本格化されますが年端もいかない子どもの中に天性を見出すのはよくあることですが大成への道のりは険しいものです。
(庚午一生)
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