時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【70】本因坊家の台所事情(6)

 広辞苑による反抗期の説明に「人間の発達過程の節目で周囲のものに反抗的態度を強く示す時期」と書いてあります。それが自我の芽生える3―4歳の頃と自我意識の高まる青年前期で誰もが経験することのようです。
 秀策のような天分に恵まれた才能の持ち主となると、ここ一番という時の決断は世間を「あっ」といわせます。そのうちの一つが前述した三原藩お抱えの棋士から本因坊家入籍による十四代跡目願いを幕府に願い出た戸籍表です。


 本因坊家の事情もあって、当時は、隠居の丈和名人をはじめ十三世丈策、跡目の兄弟子秀和らのたっての願いにも首を縦にふらなかった秀策ですが、三原藩の本家筋にあたる広島藩浅野候からの願いとあっては断われませんでした。
 そしてかねて定めてあった通り秀策を十四世本因坊跡目として、嘉永元年9月16日(弘化5年2月28日嘉永と改元)本因坊秀和から脇坂淡路守を通して幕府に願い書が差し出されました。その時の「親類書」は次の通りで秀策二十歳でした。

 親 類 書
松平安芸守領分備後国御調郡外浦百姓
一、父     桒 原   輪 三
右同領分 同国 同所 百姓
一、母     桒原八三郎(死)娘
右同領分 同国 同所 百姓
一、兄     桒 原 源 三 郎
松平安芸守領芸州豊田郡舟木村百姓
一、妹     島 田 伊 之 介 妻
右の外忌掛り之親類無御座候以上
  嘉永元年九月十六日
    本国
       備後
    生国
         桒 原 秀 策 印

 こうして跡目願いは2か月後の同年11月27日聞き届けられたと本因坊家に内報がありました。その後の跡目秀策の披露については「本因坊家旧記」に記されていますが前述の秀策「親類書」によると、三原藩のお抱え棋士として扶持(手当て)を受けるようになってからは父親の実家、安田姓を名乗り虎次郎―栄斎―寛斎と改名していました。
 それが籍を本因坊家へ移すわずか二か月の間でも安田家から生家の桒原家へ姓をもどし、桒原家から名誉ある本因坊家へ入籍するのが親孝行であると判断したのだと思われます。
 「粉糠(こぬか)三合あれば婿に行くな」ということわざは何時の時代に出来たのかは別として、九歳で親元を離れ姓も変えられた。
 それも出世の道程りの手法だったかもしれないが秀策にとっては父母や兄妹との別離がなによりも淋しかったに違いありません。ともあれ碁打ちとして強くなることが親孝行であり、天下を目指す秀策は因島外浦の桒原家の出身であることを後世に残したいという願いがこもっていたと思われます。
(庚午一生)

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