時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【71】本因坊家の台所事情(7)

 安田秀策が幕府へ願い出た本因坊家へ移籍するさいの親類書について、もう少し思惑をめぐらせてみましょう。出生地は前述したように備後国御調郡外浦(びんごのくにみつぎぐんとのうら=現尾道市因島外浦町)と記載されています。現在でいえば本籍地です。そして父、桒原輪三(わぞう)の身分を百姓と書いています。桒原家の子孫で秀策の兄孫にあたる元石切風切宮司故八千夫氏によると「秀策の母カメは外浦の浜本屋の娘で、同郡西野村の庄屋安田平次宗満の二男輪三を婿養子に迎え、分産別居。商業を営んでいた」と話されていました。


 雑貨商や肥料など尾道の商家との取り引きがあったご縁で秀策の幼名虎次郎のことが豪商灰屋吉兵衛竹下(ちっか)の目にとまり三原藩浅野甲斐守忠敬候に「神童」として推挙。トントン拍子で碁界の天下をきわめる筋書きができ上がって行く足がかりの”縁”ができたともいえるので”辻褄”があいます。しかし、秀策は父の身分を「百姓」としたためています。なぜなのかの問いに桒原宮司の答えは聞くことができませんでした。単純に考えれば、士農工商の身分制度がとわれていたころですから碁打ちの世界にも、いじめはありました。考え過ぎかもしれませんが、こうしたことも配慮しての決断だったという見解にとどめさせてお許し願いたい。
 秀策の兄も身分は母同様に百姓、桒原源三郎とあります。桒原宮司の話では、秀策の母がカメで、兄直太郎。妹を信(のぶ)と呼んだそうです。現在の戸籍謄本ともいえる親類書では女性の名字名前が書いてなく、例えば母、桒原八三郎(死)娘。妹、島田伊之助妻―とあるだけで当時の男女差別の社会思想が髣髴されてきます。
 いま一つの疑問は、秀策が十四世本因坊跡目願いのため幕府に提出した親類書によると妹お信は島田伊之助の妻とあるにもかかわらず本郷町の墓碑には島田助五郎信貞妻御調郡因島外浦桒原和三女享年三十有八とあります。このことについても次回で検証してみたいと思います。
 だからといって秀策は母や妹をないがしろにしたことはなかったようです。そして、幼い頃から家族と別れ、何よりも桒原姓から安田姓に移ったことに淋しさを感じていたことが随所でうかがい知ることができます。なかでも、妹思いであったことをうかがい知る書簡が残っていますがこれも次回に紹介することにしましょう。
 ところで、お信は天保三年生れで秀策より三歳下。現在の三原市本郷町字船木、島田助五郎に嫁ぎ二男二女を挙げ明治二年四月三十八歳で没しています。この二人は秀策に対して書画など所望しており、秀策はその都度心よく送り届けていることが実家の父輪三宛の手紙から読みとることができます。
(庚午一生)

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