空襲の子【14】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 追悼巻幡進一様

 43年と8カ月にわたって造船にかかわってこられた巻幡進一さん(因島土生町郷区)が9月21日、入院先の因島医師会病院でお亡くなりになった。享年82歳。わたしが因島空襲の取材にご自宅をお訪ねしたのは8月初めのことで、再会を約束していただいていただけに信じられない報せであった。


 先日、霊前にお参りすることができた。奥様のカネ子さんのお話では8月下旬急に体調をくずし入院された。わたしにとっては、「まだ資料の本があると思うので探しておくよ」、これが最後の会話となった。

 巻幡さんは、穏かな性格で物を大切にする人だったという。なんでも修繕すれば使えるといって手を加えては使っていた。近くの山の木でつくった杖は今でも近所の人に喜ばれている。ご主人が亡くなって本当に難儀していると奥様はおっしゃった。
 巻幡進一・カネ子夫妻は2人とも昭和20年の因島空襲の体験者である。進一さんは工員として、カネ子さんは土生高等女学校の勤労動員生徒として、日立造船因島工場にいた。今わたしの目の前に巻幡さんの残してくれた、空襲当日(7月28日)の工場内の図面がある。黄色のスーパーのチラシ裏面を使用したもので、物を大事にする人柄が偲ばれる。
 巻幡さんは大正14年7月生れ。尋常小学校高等科(現在の中学校)卒業後、昭和15年4月1日に大阪鉄工所(後に日立造船と社名変更)因島工場に就職。15歳のときだった。ついた職場は内装の木工である。船の大工さんである。
 さて図面のことであるが、通いつづけた職工さんの作成したものだけあって克明である。まず正門付近。生名渡、長崎桟橋、因島病院、安達タバコ屋、城山クラブ、松葉旅館(平木さん)、郵便局、健康組合とある。正門を入るとすぐにタイムカードのコーナー、左手に工場事務所の本館がある。この本館は昭和20年12月29日火災とある。
 正門を入って右手を行くとドックがあり、すぐ側の岸壁に繋がれていた日寅(ひとら)丸が炎上した図が記されている。さらに奥に入って工場群が描かれている。旋盤、仕上、第1ドック、第2ドック、木工工場出張所、製缶が並び、山側にポンス工場があったとなっている。そして仕上工場と第一ドック(現在の内海造船の船台と思われる―筆者)の間に防空壕があり、そこで7人が死亡したと説明されている。
 さらに、日立造船労働組合が昭和45年に発行した「労働組合二十年史」を貸していただいた。昭和20年度から始まる貴重な資料である。直接お返しすることができなくて残念である。この文章を添えて霊前にお返ししたいと考えている。

(続く)

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