父のアルバム【50】おわりに

一年余の期間、亡き父と母、そして祖父のことを記してきた。あらかじめ十分な資料があったわけではなく、父のアルバム群を見た時に、とにかく執筆しようと思い立ったのである。

しかし不思議なもので、意識して探したわけでもないのに、埋もれていた文章や手紙などが現われた。そのことで励まされ、亡くなった父母や祖父が協力してくれているのかな、と勝手に思ったりもした。

つい最近では、わが家が空襲された直後に書かれた祖父と父の文書が出てきた。それは、空襲によって不明となった隣家との境界線に関して取り決めた契約書である。父が執筆し、祖父と両名の署名捺印がある。日付は昭和20年11月13日で、空襲のおよそ3カ月後である。

内容は次の通り。

――石田常吉氏所有ノ三四六 番地(元かき乃家跡)、松本貞助所有の三四六九番地ノ一トノ境界 昭和二十年七月二十八日の爆撃ノタメ不明トナリタルモ其後決定致シ難キタメ向フ十ヶ年間上図ノ如キ假境界線ヲ定メ 土地台帳ニ認メラルベキ線トノ間ニハサマレタル石田常吉氏所有ト認ムベキ三角形状約〇・二五坪ヲコノ期間借受ケ一ヶ年金拾圓ヲ地代トシテ支拂フトナシ 改メテ正境界線ハ松本方ニテ造リ相方立合ヒノウエ確定致シ度候

「契約書」は、わが家の空襲に関する遺された唯一の文書であり、当時のわが家の混乱と苦労が偲ばれる。これは、父のノート「昭和九年 家のこと」に挟まれていた。このノートは何度も開いたのだが、その契約書の形状が薄く、ぴったりと張り付いていて気付かなかったのである。

私はUターンしたころ、父の歩んできた道を文章化しようと試みたことがあった。しかし、それは間もなく、立ち消えになった。その願いが父の死後しばらくして実現したことは幸いである。生前にはほとんど交せなかった父との会話を数十年分の質量で実現できた達成感がある。

父の人生を追跡していていつの間にか、父に叱咤激励されている自分を発見した。困難さに直面した時、父は必ず前向きで後退することをしなかった。とりわけ私が敬服したのは、晩年における八朔との関わりであった。どんなに苦しくとも、採算が合わない農作業になろうとも柑橘畑を見捨てなかった。

父は母のことを農婦として死んだとアルバムに記している。そして父は、農夫として見事に死んだのである。その志をそのまま継承することは、到底無理である。父母と祖父が愛した畑は今や誰も耕していない。せめてその働き者の魂だけは継いでいきたいものだ。(完)

(青木忠)

在りし日の父と母。出勤する父を玄関前で見送る母。昭和58年4月16日。

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