父のアルバム【4】第一章 まさかの発見

父の死後誰も住むこともなく、まるで幽霊屋敷のようになった実家に、遺品を求めて久しぶりに入った私を霊気のようなものがつつんだ。

もしかしたら他界した家族の皆が私を招いたのかも知れない。それは、同行した妻や娘には分らない私独特の感覚であろう。きっと父と母、ふたり目の母、祖父母との邂逅が実現し、間もなく消滅するであろう実家の空間で私たちは繋がったのである。

その繋がりの手ごたえが、私の現在の内面世界を落ち着かせている。長年に渡って内面がぬぐいがたい空しさに支配されたことで、情緒不安定さに翻弄された日々が嘘みたいである。

生母との死別は5歳の時、祖母も小学4年の時に旅立った。祖父の訃報は大学在学中の広島市に届いた。養母のそれは出張先の沖縄で聞いた。父が死んで早くも16年が過ぎた。

年齢を重ねるたびに別れた家族の面々と語り合いたいという想いが募るのだ。今の自分にはそうした語り合いが出来るのだと思う。皆が生きてきた時代へさかのぼる旅をしたくなったのである。

時空に逆らったその旅を何と呼べばよいのだろう。それが、ゴールのイメージが徐々に見えてきた私の人生の活力になることは間違いないのである。ではどこまでさかのぼれば良いのか。

祖父は明治22年12月、福島県岩瀬郡鏡石村(現在の鏡石町)に生を受けた。この町も原発事故の影響を受けたという。生きていたら何と言っただろう。その想いはきっと私に託されているのだろう。

祖母は明治23年1月、広島県の因島三庄町に誕生した。祖父が養子縁組をするのは明治43年1月である。祖父は船員で祖母の住む町の造船所に修繕のために入っていたのであろう。

ところで、あることに気付いた。養子縁組の四日前に長女である清子が誕生しているのである。なにしろ祖父は船乗りである。航海で留守がちであったのであろう。出産が婚姻手続きに先んじたということである。

父は明治39年4月、三原市中之町に生まれた。家庭は政治家志向の雰囲気があったようだ。父の父は村長をしており、兄は長い教員生活を経て三原市長になった。

父は養子として因島三庄町にやってきた。昭和6年12月末のことである。わが家は、曽祖父も同様であるというから養子の家系なのである。

まずは父の人生によりそうことで、昭和へのいわば逆旅行に出発しよう。

どのアルバムにもない家族写真が見付かった。従兄弟が届けてくれた。昭和21年に父の実家の玄関で撮影された。父の膝の上が満一歳の私である。

(青木忠)

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