時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【69】本因坊家の台所事情(5)

三原藩お抱え棋士 栴檀は双葉より香し
 囲碁の天才児として三原藩に抱えられ、藩士寺西右膳に連れられて江戸・上野車坂下の本因坊家の道場に送り込まれたのは天保8年11月。秀策九歳でした。因島の桒原虎次郎改め父方の三原城下西方にある西野村の庄屋、安田家を名乗り栄斎、寛斎と呼ばれていました。その後、碁聖・四代本因坊道策の「策」と兄弟子の十四世本因坊秀和の「秀」を授けられ安田秀策と名づけられ本因坊跡目へとかけのぼります。


 この間、故郷の因島・外浦の生家には4回帰っています。帰郷の度ごとに東海道をふり出しに近畿、中、西国、山陰へと囲碁修業行脚。各地でエピソードを残しました。なかでも弘化3年(1846、18歳)の2回目の帰省から江戸へ向う途中、大阪での十一世幻庵因碩との対局(3勝1打かけ)は「耳赤の一手」として後世に語り伝えられる名局を残しています。
 目に見えて進歩する秀策の棋力におどろいたのは本因坊家のようでした。菅賜碁所の座にあった十二世本因坊丈和が引退。十三世本因坊丈策は病弱だったこともあって跡目秀和の次の後継者を決めておく必要があったので年は若いが秀策をぜひ決めておきたかったようです。
 秀策にとっては大変名誉なことでしたが即座に首を縦にふりませんでした。本因坊家に入門したといっても三原藩主浅野甲斐守忠敬候から五人扶持を授かっている弟子であったこともあり「これまで支援いただいた人たちの義理や年老いた両親たちのご恩返しをしていないのに本因坊家に入るわけにはいけません」と堅く固辞、耳を傾けようとはしなかったようです。
 しかし、丈和をはじめ丈策、秀和は秀策が入門当初から「本因坊家に150年来の風が吹く」と棋才を見抜いていた当主たちは秀策確保の布石を打っていきました。その一つは秀策の固辞の理由になる浅野候に対する義理を解くために当時、御城碁を取り仕切っていた寺社奉行脇坂淡路守に懇請して三原浅野候の本家筋に当たる広島藩主浅野斎鼎に願い出たあと三原浅野候に許しを受けるという手順を踏んだ。これには秀策も断りようがなくなったようです。こうして十四世本因坊秀和の跡目(後継者)となることを約束すると共に隠居丈和の娘花子を妻とすることも内定しました。
 こうしたことがあって弘化4年の年の瀬も迫った12月中旬ごろ当主だった十三世本因坊丈策と隠居の丈和とは僅か三日の間をおいて相継ぎ病没しています。そのため跡目だった秀和はこのことを幕府に報告すると共に寺社奉行脇坂淡路守を通して幕府に願い出て許しを願います。
(庚午一生)

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