時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【43】虎次郎改め安田栄斎(その三)

 わずか一年余で殿様が推挙した囲碁の指導者である竹原宝泉寺住職葆真和尚と肩を並べた桒原虎次郎改め安田栄斎。この上の修業は江戸に上るよりほかはなくなりました。当然のことながら三原城主浅野甲斐守忠敬公を始め栄斎の大成に夢をかける人たちの願いでもありました。


 だが、藩の家臣の中には囲碁の素質があるからといって藩士並みの家禄を与え庇護することへの異論をとなえるものもいましたが藩公は反対を押し切って栄斎を江戸に上らせることに決めました。ご縁というものは不思議なものです。江戸行き話がもち上がった年の正月には尾道の林宇兵衛宅で本因坊家所属の伊藤松次郎五段から「田舎初段か。座敷ホイト」とひどい言葉をあびせられた栄斎でしたが、平然とした態度だったことや素質を見抜いた伊藤五段は江戸本因坊家へ帰って安芸の国には天才児がいることを報告していました。
 そんなこともあって、江戸の浅野家を通じて栄斎入門の交渉を受けた当時官賜碁所だった本因坊丈和は即座に快諾。その年の11月、栄斎は囲碁修業のため浅野家の家臣、寺西右膳に連れられ江戸に向って故郷を後にします。栄斎は9歳でした。
 栄斎をホイト呼ばわりした伊藤松次郎改め松和(1801~1878)についてふれておくことにしましょう。ひと口にいえば天保四傑の一人で本因坊跡目秀策の御城碁十九連勝のなかで最も苦戦したのが伊藤松和戦だったのではないかという評価をするプロ棋士もいます。四傑のうちの3人は坂口仙得、太田雄蔵、安井算知で、いずれも個性的でエピソードの多い四傑といえるでしょう。そして幕末にかけては本因坊家には丈和、秀和、秀策、秀甫。井上家には幻庵因碩らがいました。
 伊藤松次郎のちの松和は名古屋の庄屋の生まれ。幼い頃、伊藤子元に師事。尾張藩士が松次郎の囲碁の才能を見込んで金銭的な援助を与え12歳のとき本因坊元丈の門に入ります。入段は22歳でしたから早くはありませんが、29歳の五段までは順調に昇段しました。その後、名古屋にとどまりますが、39歳で再び江戸に出て本因坊家の後継者候補にもなり丈和の一字をとって松和と名乗りました。しかし19歳年下の秀和が才能を発揮、第十四世本因坊に。そして跡目に秀策が幕府に届けられます。
 伊藤松和は49歳で七段に昇り、秀策とともに御城碁に出仕します。住いは神田お玉ヶ池に道場を構え、近くに北辰一刀流の千葉周作道場や佐久間象山書院があり繁盛したと伝えられています。しかし、明治に入り碁打ちは幕府の援助はなくなり悲惨な目に会いますが晩年八段凖名人に昇り明治11年78歳で没しています。
(庚午一生)

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