時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【36】郷里の父に宛てたもの(その4)

掲載号 09年05月23日号

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尾道人物誌土居咲吾(2)

 広島浅野藩に関係の深かった問屋業者、加登灰屋橋本家宛に秀策が書き送った一節に「(前略)長尾浩策先頃参られ候説は留守其の後尋ね申す可く存じ候も其の儀無く御地へ対し申し分もこれなき次第也。然しながら其の内尋ね申すべく候」とある。

 日付は安政6年9月17日(1859)。尾道出身の長尾幸作が京都から江戸に上った年にあたり、文面より察すると医師の父俊良が秀策の後援者である加登灰屋橋本吉兵衛、長右衛門に頼んで「息子の江戸でのことをよろしく」と秀策宛の添書を持たせたと思われる。

 幸作は上京して本因坊家の秀策を尋ねたが、折り悪しく留守で会えなかった。このことを気にして尾道の橋本一家に書き送ったもので、秀策と橋本家との関係をはかり知ることができます。

 同じ日付で因島の父輪三宛の書簡には、

 「(前略)東灰屋近年おとなしく人聞きも宜しく勢い玉の浦一人の由長尾浩策より承わり御同慶の儀に御座候」とあり、9月17日付で「其の内尋ね申す可く候」と書き送った通り二ヵ月あまり後に再び幸策は本因坊家を訪れ秀策とあい、故郷のよもやま話にふけった様子がうかがえます。ここの東灰屋とは橋本長右衛門を指し、玉の浦は古くからの尾道港の地名です。そして秀策のパトロン的存在であった橋本一家の町の評判を父と子が手紙を通して喜びあっている様子が読みとれ秀策の人柄がしのばれます。

 ところが万延元年(1860)12月21日付父宛の書簡では長尾幸作について「今後一切交際しない」と秀策としては珍しく立腹した内容のものが残っています。

 この書簡に書かれた経緯を簡単にのべると、長尾幸作は万延元年に米国に向け渡航しました。このとき勝海舟率いる咸臨丸に乗船隋伴が決まると、その理由を説明せずに秀策から金子(きんす=お金)を借用したようです。咸臨丸は1月に東京湾を出発10月には帰港していますが12月になっても返済しないため故郷の先輩を利用するだけ利用して、礼を尽さぬ幸作の等閑(なおざり)に立腹し「今後一切交際しない」と金子を返済するよう申し送っています。

 幸作としては渡米乗船の理由など内密にせざるを得ない事情があったのでしょう。とにかく秀策に対する不義理を橋本家や父俊良に説明、その取りなし方を依頼しました。このため郷里の尾道では、この幸作の知らせに驚いて早速お詫びの書簡を出すと共に橋本家や因島の秀策の父に取りなし方をお願いするはめになりました。

(庚午一生)

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