碁打ち探訪今昔四方山話
因碩倒れ碁所断念 通算9日間にわたった碁所(ごどころ)就位をめぐる争碁は奉行所の都合で8日目が夜を徹して打ち続けられ白264で終局となった。秀和の4目勝ち。両者は精魂つき果てた大勝負だったが、体調不良で敗れた因碩の落胆...(12/05/12)
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遊郭に逃げ込んだ秀和 閑話休題 囲碁対局で「打ち掛け」という用語があります。現代のように制限時間がなかった時代ですから勝負が決着するのに何日もかかりました。そこで、続きを翌日に持ち越すことを打ち掛けといいます。...(12/05/05)
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大一番開始の内幕 万全の布石を打ったはずだった本因坊丈和だが、丈和が引退して名人碁所が空席になると、井上幻庵因碩が待ってましたとばかり寺社奉行に碁所就位を願い出ました。...(12/04/28)
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9歳の少年再び江戸へ 江戸時代の囲碁史の裏面をのぞいてみると、名人碁所をめぐって棋院四家が鎬(しのぎ)を削る抗争の時代であったともいえます。争碁は実力の勝ち負けで決まりますが碁所の座を獲得するには、実力以外の世才や幕府...(12/04/21)
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連れ戻された俊平 和三郎は、わが子の才能に期待をかけ江戸の頂点に立つ本因坊丈和の内弟子として預け伊豆に帰ってきました。丈和といえば当時の囲碁界では泣く子もだまる官賜碁所の地位にありました。囲碁の家元四家(本因坊、井上、...(12/04/07)
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第十四世本因坊秀和は幼名を土屋俊平といい、文政3年(1820)生まれというから秀策より18歳年長である。土屋家は伊豆の君沢群小下田村だが先祖は甲斐武田の落人、土屋新左衛門を遠祖として代々名主をつとめた旧家だったと土肥町...(12/03/31)
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天才児秀和のエピソード 日本棋院創立80年を記念して建設された囲碁殿堂記念館入りした本因坊秀策生家の代理として記念式典に出席しての帰途、静岡県三島駅で下車。友人の運転で伊豆半島の土肥町小下田に向った。幕末の名棋士本因坊...(12/03/17)
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跡目の跡目願い 二度目の江戸留学となる本因坊家預り弟子である安田秀策は三か年のうち毎年一段ずつ昇段という驚異の記録を残しました。天保14年囲碁姓名録によれば初段以上の有段者は全国で258人。そのうち四段は四家(本因坊...(12/03/10)
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登り竜の勢い 9歳で江戸・本因坊家へ入門。11歳で初段。13歳二段格、10か月後三段(13歳夏)昇進。天保14年、秀策15歳になってからは兄弟子や先輩との対局が多くなっていることが棋譜として残されている。この時代、秀...(12/03/03)
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本因坊家の思惑 本因坊家にとって「百五十年来の碁豪」と秀策少年の天賦の才に惚れ込んだ碁家総元締の官賜碁所第十二世本因坊丈和。九段で名人。実力は俗に十三段ともいわれ、前聖は四世本因坊道策そして後聖が丈和に冠せられている...(12/02/11)
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14歳の夏 三段格に昇進 桒原虎次郎改め安田栄斎―秀策となり、この間、江戸では「安芸小僧」の名で話題にのぼるようになっていました。備後の国、因島生まれだが、他国の人たちは三原も尾道も備後でありながら安芸広島浅野藩の分...(12/01/28)
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9歳で江戸・本因坊家に入門した安田栄斎。弘化元年16歳で2度目の帰郷。弘化3年17歳のとき三原城主浅野甲斐守より増禄の沙汰があり秀策自身江戸の家元を背負って碁界の頂点に立とうという野心はなかった。身分はあくまで三原藩士...(12/01/21)
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栄斎改め秀策 大阪で大金星をあげた安田栄斎(寛斎)は江戸車坂の本因坊家の道場に入ったのが8月末のこと。栄斎にとっても転機となる二つの出来事が待っていました。 ...(12/01/14)
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天皇も興味そそられる 大阪での「耳赤の局」は京都に伝わりました。大阪で栄斎と対局、中押し敗けした中川順節から京都に居た河北房種五段にその時の棋譜がとどけられ「これが13歳の少年か…」と着手の手順に非凡なことに驚きまし...(11/12/24)
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百五十年来の門風 虎次郎改め安田栄斎は天保8年11月、芸州浅野家の家臣寺西右膳に連れられて出立。年の暮れに江戸は上野車坂下の本因坊家道場に着いています。年わずか9歳で、当時は成人すればお伊勢参りに別れの水杯(みずさか...(11/12/17)
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秀策青年の芸道秀逸 この対局から3年後の嘉永2年2月。幻庵因碩は中国筋を行脚の途中、尾道を訪れ、豪商橋本竹下茶園で町の人の問いに答えて「秀策の芸道は秀逸。18歳にて既に上手(七段位)の域に達する力を備え、その上、今後ど...(11/12/10)
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耳赤3日がかりの碁 当時としては時間制限もなければコミもありません。プロ・アマの段・級位は同格でした。因碩八段に対し秀策四段の最初の一局は黒2目で打ち、あまり時間をかけずに打ち掛け(勝負中断)、都合5回の対局のうち秀...(11/12/03)
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耳赤の歴史的誤伝 耳赤の対局は当時としては珍しい三日がかりの碁。どのくらい時間が使われたのかは不明です。それにしても幻庵因碩準名人八段に秀策四段は二子戦の手合い割りが順当。初日の二子の打ち掛けに引き続いて2日目も打ち継...(11/11/26)
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安田秀策黒先で金星 秀策を黒定先と認めたのは十一世井上幻庵準名人八段の方からでした。この頃の手合い割によると対局ごとに黒をもつ二段差のハンディーです。安田秀策は芸州浅野藩士並みに増禄を受け本因坊家への入門はあくまで「...(11/11/19)
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上府の途中、大阪(当時大坂)に立ち寄った秀策は訣(わけ)あって当地へ3か月も滞在することになります。おそらく中川順節が井上家の師匠で準名人の幻庵因碩の帰阪を待ち秀策と対局させようという魂胆から色々な理由をつけ引き留めら...(11/11/12)
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秀策の生涯で5本の指に入る有名局として「耳赤の一手」は伝えられている一つで、姓を安田と名乗っていた天保14年、15歳で四段の免許を受けた頃から「一、三、五」の秀策流を試みはじめています。弘化元年、16歳。10月に江戸を...(11/11/05)
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十一世井上幻庵因碩と対局 秀策は9歳で江戸の本因坊家に入門、故郷因島外浦に4回帰郷している。2回目の帰郷も一年余りを過した弘化3年(1846)18歳の春4月。3度目の江戸に向け出発します。この度の出府では途中大阪で2...(11/10/29)
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孫子の兵法と囲碁十訣 孫子の兵法と囲碁十訣は本質も部分面でも共通点が多くあることはいうまでもありません。戦国時代の武将の一人として名を残している甲斐の国主、武田信玄の軍旗に記された孫子の句「風林火山」が一般に知られてい...(11/10/15)
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「碁聖本因坊秀策」の著者で尾道市の樫本清人氏は水谷縫次について、次のように書き残しておられます。 ...(11/10/01)
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エピソードその三 徳川幕府が崩壊、庶民の生活文化まで夜明けを迎えようとしていた明治時代前期の囲碁界の鬼才といえば水谷縫次(1846―1884)が隠れた存在にいる。尾道―今治を結ぶ、しまなみ海道の来島海峡をのぞむ大島出身...(11/09/24)
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エピソードその二 本因坊十四代跡目秀策と怪力で名をとどろかせていた尾道済法寺住職竹田物外不遷和尚は讃岐(香川県)丸亀の「金毘羅宮(こんぴらぐう)」をあとにして高松を訪れました。...(11/09/17)
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「拳骨和尚の落款」 閑話休題 本因坊秀策が揮毫した碁盤を所蔵しているという"話"を耳にすることはあるが、秀策が十四世跡目であったことと、幕末というご時世もあって数少ない。そのほか前人未到というお城碁...(11/09/10)
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80年ぶり里帰り これまで、本因坊秀策の遺品を収蔵していた因島外浦町の生家である桒原家をはじめ日本棋院関係者や地元研究者らの文献に三原城主浅野甲斐守忠敬公から贈られた碁盤が桒原家に存在していたという話はなかった。ところ...(11/09/03)
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本因坊秀策の書簡が最も多く所蔵されていたのは尾道市因島外浦町宮谷の秀策生誕の地にある生家である。既に記したように秀策の甥孫に当たる桒原澄次氏が秀策の遺品を守って七男の八千夫氏(石切風切宮司)へと引き継がれた。そして現在...(11/08/27)
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閑話休題 まず、お詫びしなければならないのは「消えた三原城主浅野公下賜の秀策揮毫の碁盤が百五十年ぶりの里帰り」と前述したのは「八十年ぶり」の誤りにつき訂正してお詫びいたします。なお、百五十年は秀策没後の年数になります。 ...(11/07/16)
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栴檀(せんだんは)二葉より芳(かんば)し―と、秀策幼少のころより、芸州浅野藩公お抱えの棋士が、お殿様(三原藩主、浅野甲斐守忠敬)から下賜された碁盤をやすやすと手放すことは考えられないのですが、ともあれ180年ぶりに本因...(11/07/09)
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東京在住の島田医師から寄贈された秀策揮毫の碁盤から、これまでの遺品研究保存を集録した秀策の甥(兄和三の長男)桒原寅四郎氏の「本因坊秀策小伝」にも見当たらなかった新事実が浮かび上がりました。...(11/07/02)
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郷土出身で幕末を駆け抜けた偉大な天才棋士、本因坊秀策伝の連載を休止しているうちに未発表だった秀策揮毫の碁盤と備後(福山)鞆町の保命酒本舗、中村家の文書から秀策と当家8代目の当主対局の棋譜が出てきたので解説をしてほしいと...(11/06/25)
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(前項につづく)―それでは東郷元帥右と乃木大将はどれくらいの棋力であったかと問われると棋譜が残っていないので誰も判定することはできません。そこで、年末年始にかけて囲碁にかかわる著書や散文をむさぼるように目を通していまし...(11/01/15)
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閑話休題 NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」(司馬遼太郎原作)の二部が始まったところで正岡子規(香川照之)が死んでしまった。このドラマで残念でならないのは東郷元帥も乃木大将も大久保利通も皆碁好きであったと伝えられる。と...(10/12/18)
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世が世であれば、お言葉も交わせられない徳川将軍さまや島根県大田市の長者、十三世山崎様(碁聖道策の子孫)と談笑しているところへやって来たのが囲碁界で人気上昇中の張栩(ちょうしょう)名人(24)と小林泉美(いずみ)女流名人...(10/12/11)
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徳川家康が日本棋院第一回殿堂入りを果たしたのは当然のことと思われますが、あえて異論を唱えるとすれば囲碁界を庇護した功績によるものです。その他の殿堂入りは本因坊算砂、碁聖・本因坊道策、本因坊跡目秀策それに続き碁打ちの名人...(10/12/04)
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日本棋院囲碁殿堂記念館オープンセレモニーのあと、本因坊秀策の殿堂入りを記念して出展依頼があった「秀策母子愛用の碁盤」の展示位置が気がかりだったので地階の殿堂記念館をのぞきました。記念式典後に一般公開される予定でしたので誰...(10/11/27)
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閑話休題 有為転変の世の習いの人生で因島外浦町にある碁聖・本因坊秀策の生家とご縁ができて平成16年(2004)11月15日には日本棋院創立80周年記念式典に秀策記念館長の代理として出席するという栄誉ある機会をたまわり一生...(10/11/20)
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45歳で囲碁の虜に 我が国の歴史上の偉人ベスト10をあげるとすれば戦国の世を統一した徳川家康が上位にランクされてもおかしくないでしょう。2004年11月、日本棋院創立80周年記念事業として設立された殿堂資料館第1号に...(10/11/13)
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どの世界でも一流になった人にはよきライバルがいたようです。囲碁の天才児と注目されていた因島出身の村上文祥さんも例外ではありませんでした。仕事上のライバルはさておき、趣味の囲碁仲間のライバルといえば大学時代に出会い社会人...(10/11/06)
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故郷のヒナ壇でスポットをあびたのは地元土生町出身の文祥さん。国際アマトップグループの実績を持っての村上文祥6段の登壇だった。大盤解説者の竜騎兵と聞き手側に立つ文祥さんのやりとりも参加者をよろこばせました。何しろ大学卒業...(10/10/30)
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戦後の市町村合併特例法に飛び乗って御調郡(みつぎぐん)から抜け出し因島7ヵ町村が合併して因島市が誕生したのは昭和27年(1952)。全国で数ある島の中で「1島1市」が誕生したのは初めてのことでした。人口4万人足らずの小...(10/10/23)
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村上文祥氏を知ったのは新制土生高等学校(現因島高校)に編入した時でした。県立土生高等女学校に男女共学の高等学校が併設されたことで島外へ出た中学生のほとんどが帰ってきました。尾中・尾商組、三原中・工業組、今治中学、広島組...(10/10/16)
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島の中学生(旧制)は船通か寄宿舎または下宿生活でした。いまのように橋が架かっていなく船が唯一の交通機関だったので小学校を卒業して進学組はそれぞれ普通科、商業、工業などのほか小学校高等科卒業後、師範、商船、造船、農業、鉄...(10/10/02)
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村上文祥さんは因島生まれということから「村上水軍」の末裔だと自己紹介していたころがある。囲碁の天才少年として父に連れられてプロ棋士の指導を受けていたがプロの道をあきらめ因島高校を昭和26年(1951)に卒業後、早稲田大...(10/09/25)
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アマチュア本因坊戦優勝5回、アマ十傑戦優勝6回という戦績を残している村上文祥さんがいかに強豪であったかがうかがえる。略歴をたどって見ると、1932年尾道市因島土生町塩浜生まれ。亡くなったのは1999年だから享年67歳。...(10/09/18)
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テレビで囲碁対局が放送されたのは昭和36年(1961年)4月29日の天皇誕生日でした。今ではインターネットというメディアの活用をすることが当り前のようになってきましたが、当時としては画期的なできごとでした。そしてアマ本...(10/09/11)
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