因島にて…
父は再婚し新しい家族のもとで私は昭和29年4月、椋浦小学校に入学する。戦後の「復興」と「民主主義」で日本中に活気が溢れ、その雰囲気は小さな町にも押し寄せてきたころであろう。...(12/01/14)
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母清子が私を歌ったものがもうひとつある。私の家族は、椋浦小学校のすぐ近くの「校長住宅」に住んだが、そこで病床に臥していた母は聞こえる児童の声に、となりの町で祖父母と暮らす私を想ったのだろう。...(11/12/17)
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今から20年前に、関東大震災の再来を恐れてUターンした私と家族は、子どもたちの成長に伴い分散化した。娘は東京に就職し、息子は松山市の大学に入学した。したがってめいめいが、「3・11」を違った場所と形で体験することになっ...(11/11/12)
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当時、学生運動は様々な思想的試練を乗り越えながら大きな高揚を実現していった。初めて運動の総力を挙げて取り組んだ沖縄闘争(本土復帰・基地撤去・永久核基地化阻止)において突きつけられたのは、「基地を撤去すれば、沖縄は元の『...(11/11/05)
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上関原発工事現場に案内してくれる先輩に、海岸へとつづく藪のなかの小道を下りながら、繰り返しお願いした。「原発問題は勉強してなくて、苦手なんです」。事実そうであった。...(11/10/29)
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上関原発の工事現場と祝島で感じたものをどのように実らせていくか、一つの課題となった。原発建設に反対しつづける島人の暮らしを描くドキュメンタリー映画「祝の島」の製作に協力し、その上映会を行うことで、その想いを継続しようと...(11/10/15)
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大手電力会社から電力を購入しない電力の自給自足が理想である。「発電所」を発足させたとき、自分で電力を生産する喜びを知った。そしてその変化が、「3・11」後の「覚悟」の土台となった。「原発に文句があるなら電気を使うな」と...(11/10/08)
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福島第一原子力発電所の事故直後には大混乱した私ではあるが、しばらくして自分を取り戻し、ひとつの納得できる視点を獲得した。自らの生活に即して原発問題を考えることにしたのである。...(11/10/01)
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5月10日の朝日新聞は次の記事を載せた。 ―「戦艦武蔵」などで知られ、2006年に死去した作家吉村昭さんが40年前に発表した記録文学「三陸海岸大津波」が東日本大震災以降、増刷を重ねている。三陸海岸を襲った3度の大津波を...(11/09/24)
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関東大震災前夜の状況を著者の石橋克彦名誉教授は、「しかし、南関東の地底は、刻々と破局に近づいていた」と表現している。...(11/09/17)
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日本地震学会長の平原和朗・京大理学研究科教授は、大地震がいつ起きてもおかしくない情勢のなかで、国民の意識のあり方について語っている。...(11/09/10)
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最近、ふたりの地震学者のインタビュー記事を読んだ。いずれも、まったく想定できなかった東日本大震災に衝撃をうけた心境を吐露したものである。...(11/09/03)
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今村文彦教授は、マグニチュード九の四連動巨大地震にも言及する。 ―さらに、震源域が広がれば、マグニチュードが9になる可能性も否定できません。言うまでもなく、被害は拡大します。東はプレートの境界が相模トラフですので余地は...(11/08/27)
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被害を防ぐにはどうするか。三連動地震では、大きな揺れにつづいて津波が確実に来る。しかも到達時間が早い。避難行動を急がなければならない。今村文彦教授は、車の利用について、警告している。...(11/08/20)
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東日本大震災を受けて今村文彦教授は、「津波による人的被害の評価方法の抜本的見直し」を強調する。前号で示したように、まず「住民以外の、その場にいた人たちの人的被害」の想定の必要性を述べたうえで、「漂流物による被害の拡大」...(11/08/13)
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津波研究の第一人者である今村文彦東北大大学院災害制御研究センター教授(津波工学)は、自らメンバーとして参加した中央防災会議の三連動地震の被害想定(2003年9月)を次のように紹介する。...(11/08/06)
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私は東日本大震災発生以来、津波研究の第一人者、今村文彦・東北大大学院災害制御研究センター教授(津波工学)の動向を追っていた。どうしてこのような大津波が起きたのか、知りたかったからだ。...(11/07/23)
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4月5日の毎日新聞は、「東北の人たちを信じよう その忍耐と英知を」という見だしを掲げ、明治以来3回、三陸海岸を襲った巨大津波の写真を掲載している。それらは、今回の大津波被害と酷似していて衝撃的である。...(11/07/16)
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被災地から遠く離れて生活している者にとって東日本大震災は、体感できなかった揺れではなくて、映像で実況された大津波としてあった。その映像は、23万人の死者をだした2004年のスマトラ沖地震による大津波を思い起こさせる凄ま...(11/07/09)
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石橋克彦・神戸大名誉教授は、地震学者としての危機感をふりしぼって警告するのである。地震列島における原発は「制御された安全」ではなく、「本質的な安全」が必要である。しかし、地震列島の原発の本質的安全など存在しない。地震が...(11/07/02)
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石橋克彦・神戸大名誉教授(地震学)は、東日本大震災後の5月23日に開かれた参議院行政監視委員会で、参考人として「原発事故と行政監視システムの在り方」について意見を述べている。石橋参考人が準備したレジメ(要点)にそって見...(11/06/25)
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1997年から「原発震災」を警告していた石橋公述人(石橋克彦・神戸大名誉教授=地震学)は、2005年2月の衆議院予算委員会で、東海地震の予想震源域の真上にある浜岡原子力発電所に焦点をあわせ、その内容を明らかにする。...(11/06/18)
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石橋公述人(石橋克彦・神戸大名誉教授=地震学)は、日本列島の大地震の起こり方には、活動期と静穏期というのが認められるとしたうえで、優れた地震学者ならではの時代認識を提示する。...(11/06/11)
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ふり返ってみるに大地震というものを意識するようになったのは、大学3年目に上京して首都に住むようになってからである。瀬戸内海沿岸での生活において地震が意識にのぼることは、ほとんどなかった。...(11/05/28)
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多くの人がそうであったかもしれないが、3・11東日本大震災によって私のすべてが変わってしまったようだ。突然の災禍の知らせに何もできないことを痛感するとともに、生起しているすべを直視し、つかみとろうと決心した。それ以来で...(11/05/21)
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時代遺跡の島 (21) 現代史への責任(6) 第二次世界大戦における捕虜虐待問題を調べている私にとって、米国のビンラディン容疑者殺害は不愉快な事件であった。ホルダー司法長官がこの行為の正当性を主張するにあたり、真珠湾攻撃...(11/05/14)
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時代遺跡の島(20) 現代史への責任(5) この間、因島において捕虜生活を過ごした英軍将校の著作を素材にして、秘められた戦時下の郷土現代史を記してきた。しかし、どうしても釈然としない部分が残った。大戦下の捕虜虐待が日本軍...(11/04/30)
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時代遺跡の島(19) 現代史への責任(4) ここまで捕虜収容所問題について書いてきたのだから、長い間伏せてきた問題意識のあらいざらいを文章化しようと思う。二度とこうした機会はないことだろう。...(11/04/23)
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時代遺跡の島(18) 現代史への責任(3) 著者のフレッチャー‐クック氏は、因島収容所内での虐待行為について、冷徹な観察眼をもって次のように分析している。...(11/04/16)
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時代遺跡の島(17) 現代史への責任(2) 日本捕虜収容所について言及したのだから私は、「捕虜虐待」問題について語らねばならない。その意味でもフレッチャー・クック氏の著作は導きの糸になった。...(11/04/09)
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時代遺跡の島(14) 現代史への責任(1) 空襲と捕虜収容所の時代は公の歴史からすっぽりと欠落している。そればかりか地域においては、自らの現代史そのものへの言及さえ憚られる有様である。だとするならば誰かが、その時代を蘇ら...(11/04/02)
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時代遺跡の島(15) 米軍作成地図 2008年8月、空襲当時に米軍が作成した、「土生 日本本州広島県因島」というタイトルの因島南部の地図が送られてきた。1万2500分の1で約60センチ四方の大きさ。無論、すべて英文である...(11/03/26)
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63時代遺跡の島(14) 因島捕虜収容所(12) これまで、著者が捕虜として因島に連れてこられ、福岡県宮田で解放されるまでを見てきた。その3年半におよぶ捕虜生活のなかで著者にとって忘れられないのは、仇名"ジョージ"と呼ば...(11/03/19)
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時代遺跡の島(13) 因島捕虜収容所(11) 著者は、「エピローグ――日本を再び訪ねて 一九六九年八月」の冒頭に次のように書いている。...(11/03/12)
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時代遺跡の島(12) 因島捕虜収容所(10) 著者が福岡県宮田の収容所にいたのは1945年の6月から9月である。その時期には、日本の敗戦は確実になっており、収容所側もそのことを自覚していたはずである。著者はここで「8月1...(11/03/05)
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時代遺跡の島(11) 因島捕虜収容所(9) 善通寺では食糧の欠乏に対処して、収容所の命令で将校をも含めて捕虜は農地の開墾に参加した。まさに、「私たちは、生きんがために進んで開墾作業に従事した。」という状況であった。しかし...(11/02/26)
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時代遺跡の島(10) 因島捕虜収容所(8) 「1943年12月18日(土)午前九時、土生の捕虜仲間だった将校4人と私、土生収容所の〝微笑者(スマイラー)〟軍曹、それに善通寺から私たちをつれにきた日本軍の准尉――。この7人...(11/02/19)
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時代遺跡の島(9) 因島捕虜収容所(7) 劣悪な労働条件の造船所で、捕虜たちは作業についた。ここでも彼らは、部隊としての連携をとりながら、労働環境を少しでも改善しようと努力した。待遇も彼らを監督する日本人によってかなり違...(11/02/12)
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時代遺跡の島(8) 因島捕虜収容所(6) 英軍捕虜たちは決して囚人ではなく軍人であった。難局を迎えても座して死を待つのではなく、実に賢明な方針のもとに自らを守ろうとした。著者は次のように記している。 ...(11/02/05)
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時代遺跡の島(7) 因島捕虜収容所(5) 当然のことだが収容所側は、英軍捕虜に対して、日本の軍律への服従と日本の生活に慣れることを求めた。 ...(11/01/29)
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時代遺跡の島(6) 因島捕虜収容所(4) 捕虜たちは、造船所で働かされることについてどのように感じていたのだろうか。著者は二カ所で、それを「歓迎」する趣旨の表現を使っている。 ...(11/01/22)
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時代遺跡の島(5) 因島捕虜収容所(3) 「天皇のお客さん~書かれざる戦史―日本捕虜収容所」の著者であるジョン・フレッチャー‐クックが私の生まれ故郷にあった収容所に囚われの身になっていたのは、1942年11月から翌年11...(11/01/15)
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時代遺跡の島(4) 因島捕虜収容所(2) 因島などの捕虜収容所における「虐待行為」をテーマにしたテレビドキュメンタリー「212枚の認識票~英軍捕虜の傷痕と戦後補償~」を改めて見直して、再びそれへの物足りなさと、その内容の...(10/12/25)
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時代遺跡の島(4) 因島捕虜収容所(2) 因島などの捕虜収容所における「虐待行為」をテーマにしたテレビドキュメンタリー「212枚の認識票~英軍捕虜の傷痕と戦後補償~」を改めて見直して、再びそれへの物足りなさと、その内容の...(10/12/25)
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時代遺跡の島(3) 因島捕虜収容所(1) 第二次世界大戦下の1942年11月から敗戦までのおよそ3年間、因島三庄町に英軍捕虜収容所があった。私が生まれた家から2、300メートルのところで、海沿いの木造二階建ての建物である...(10/12/18)
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時代遺跡の島(2) 防空壕 因島は、太平洋戦争下に使用された防空壕が多く残っている。それを見るたびにこの地は、戦場だったのだと思う。日本においては第二次世界大戦中に、米軍を中心とする連合軍による空襲が迫るなか、防空壕が...(10/12/11)
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時代遺跡の島(1) 夏以降の空襲調査の成果を原稿にまとめようと準備をしていると、延坪島(ヨンピョンド)を戦場に韓国軍と北朝鮮軍の戦闘が勃発した。報道によれば住民は、島内の防空壕や仁川港などに避難したという。...(10/12/04)
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予期せぬ出会い(3) 私が書いた「予期せぬ出会い」の原稿を送ると越智大円さんからメールが届いた。 ―原稿をプリントして、繰り返し読ませて貰いました。私の気持ちを充分に察していただき、意欲がわきます。 まさに「予期せ...(10/11/27)
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予期せぬ出会い(2) BC級戦犯として処刑された捕虜収容所の村上宅次大尉と因島出身の夫人をテーマに小説に描こうとしている、愛媛県新居浜市の文筆家・越智大円さんが、因島にやってきた。書き始める前に是非とも訪れたかったとい...(10/11/20)
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予期せぬ出会い(1) 6月のことである。愛媛県新居浜市の文筆家の越智大円さんとの予期せぬ交流が始まった。ある方の紹介が発端であった。指定された番号に電話を入れると、予想もしない会話に発展した。 ...(10/11/13)
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ある決心(4) 全国空襲被害者連絡協議会から結成集会後まもなく、大きな角封筒が届いた。会則、アピール、数種類の新聞コピーが収められていた。出席していない私は丁寧に目を通した。そして、呼びかけに応えて加入し、この団体とと...(10/11/06)
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ある決心(3) 終戦記念日前日の8月14日、太平洋戦争末期の空襲の遺族や被害者が、差別なき戦後補償を求めた救済法の制定めざす、「全国空襲被害者連絡協議会」(略称・全国空襲連)を結成した。会場の東京都台東区民会館には、東...(10/10/30)
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ある決心(2) 家内が自らのルーツをたどる小旅行に大学3年の息子を同行させたことに、少々驚かされた。同時に希望を見た想いであった。今まで感じたことのない覚悟が伝わってきたからである。「自分が知るだけでは駄目で、子供にも...(10/10/23)
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ある決心(1) 9月初旬のことである。家内は私に、「東京大空襲で死んだ自分の家族のことを調べるために、息子を連れて親類の家に行ってくる」と告げた。そして、10月の連休を使ってその計画を実行した。人生の大半を東京で過ごし...(10/10/16)
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戦後65年―因島の秋(4) 毎年8月と9月ころになると私は体調を乱すのだが、今年は特別のようだ。Uターンして19年間の疲れがまとめて噴出したような気がした。生まれ故郷で過ごしてきたこの間のありようでは、歯が立たないほど...(10/10/02)
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戦後65年―因島の秋(3) 9月初旬に東京に向かい、大学時代の友人との四十数年ぶりの再会を果たしたのだが、翌日JR福山駅に戻ってきたころ自らの体調の異変に気付いた。ただただすべてのことを忘れて眠りたかった。今年は途中で...(10/09/25)
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戦後65年―因島の秋(2) 原田真二という歌手は、18歳でデビューして以来33年間の歌手生活のすべてをかけて今夏、因島の島唄「アイランド・オブ・ピース因島」を作詞・作曲し、700人の聴衆の前で歌い上げた。彼を招へいし、...(10/09/18)
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戦後65年―因島の秋(1) 個人的なことではあるが、今週に大きな出来事が連続した。本稿を書こうとしていた私に、一通のメールが入った。弁護士になるために司法試験を受けた、埼玉に住む息子からであった。その内容は、「合格した...(10/09/11)
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戦後65年―因島の夏(4) 私は、大学2年の18歳のとき以来、全国各地で無数の集会やデモを行なってきたが、そのなかでも、戦後65周年―因島の夏の集いは、忘れえぬものになるだろう。それは、私にとって、昔からの夢の実現とし...(10/09/04)
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戦後65年―因島の夏(3) 私がこの夏、変わったのは確実のようだ。その直接の要因は、天才ミュージシャン・原田真二さんとの出会いとふれあいである。この連載は、次の文章で始まった。...(10/08/28)
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戦後65年―因島の夏(2) 戦後65周年の因島空襲記念日の7月28日、私は自ら住んでいるこの地域で、つもりつもった想いをこめて「平和」を叫ぼうと思った。私は「平和」という言葉がいつの間にか嫌いになっていた。「慰霊」とか...(10/08/21)
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戦後65年―因島の夏(1) 戦後65周年目の「因島の夏」は、特別の夏になったであろうか。先日、「せとうちタイムズ」紙を配達しているとある方に呼び止められ、「私の妻は被爆者で3年前に死んだ。あんたが、お金のことを度外視し...(10/08/14)
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原田真二さんのこと(終) テレビ朝日系広島ホームテレビは8月3日、特集「65回目の夏…語られなかった因島空襲」を約13分間にもわたって放映した。私はその日、広島市にいて同局のロビーで、被爆ピアノコンサートで活躍する、ピ...(10/08/07)
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原田真二さんのこと(6) 「原田真二さんの進水式」の日の7月14日は、中国地方を梅雨前線の影響で豪雨が襲った。翌日の新聞は、「豪雨3人死亡2人不明」と報道した。原田さんもその渦中にまきこまれ、その日の予定がズタズタにな...(10/07/24)
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原田真二さんのこと(4) 日立造船因島工場内にある内海造船を見学した夜、ある方の屋敷に招かれ、食事をしながら懇談をした。その後、原田真二さんに立ち会ってもらって、コンサート当日のバックコーラスメンバーが練習をした。...(10/07/17)
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原田真二さんのこと(3) 2月22日の旧広島市民球場での申し入れ以降ただちに、原田真二さんのシングル、アルバム、DVDを取り寄せ、聴きはじめた。コンサートを主催するのだから一番のファンにならなきゃ、と真剣に考えた結果で...(10/07/10)
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原田真二さんのこと(2) 私のもとに5月下旬、自主出版本「因島空襲」を注文する、一通のメールが届いた。神奈川県の女性からであった。それには、注文メールにしてはめずらしく、文章が添えられていた。 ...(10/07/03)
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原田真二さんのこと(1) 戦後65周年の因島空襲記念日の7月28日、「いんのしまピースデイ・よみがえれ因島」と銘うった野外コンサートが、因島運動公園で開催される。そのメインゲストは、原田真二さんである。この企画が明ら...(10/06/26)
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東京大空襲との出会い 2010年6月3日は私にとって記念すべき日となるだろう。この日私は、東京大空襲の犠牲者・遺族とお会いすることになった。私の20数年の東京生活は、因島空襲と同様、東京大空襲にも無関心の日々であった。...(10/06/19)
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横須賀の丘で 私は6月4日、神奈川県横須賀市観音崎の丘にいた。そこは大きな公園になっており、東京湾に面したところに私のめざす「戦没船員の碑」があった。眼下には浦賀水道、房総半島、遠くには太平洋の水平線が望まれた。碑には...(10/06/12)
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文章化を急げ(4) 私が経営している学習塾に来ていただいて宮地種光さんとお話することになった。宮地さんは「まさか自分たちが体験した空襲を調べている人がいるとは思わなかった」と語った。大田しどりさんも空襲を体験した同級生...(10/05/29)
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文章化を急げ(3) 大田しどりさんは、毎日新聞の「ひと」欄(2008年7月26日)を見て私にお電話を下さった。ふたりの私の姉の名を言い、私の姉かと尋ねた。そして、私の生家と隣接した大田さんの家も同じ空襲で全壊したと告げ...(10/05/22)
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文章化を急げ(2) 奈良市在住の大田(旧姓山崎)しどりさんから、お手紙とともに、「忘れられない思い出 三D 51 山崎しどり」という、作文が届いた。2008年8月15日のことである。因島三庄町神田の居住地にたいする空襲...(10/05/15)
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文章化を急げ(1) 毎年のことだが、7月28日の因島空襲記念日が近づいてくる頃になると特別の気持ちになってくる。そのことで頭のなかが一杯になるのだ。戦後65周年の今年はなおさらのことである。...(10/05/08)
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戦後65周年の日々 今年は太平洋戦争が終了して65周年になる。やはり、その年の日々は私にとっても特別である。私は、生まれ故郷で人生最後の仕事をしようと、家族とともに住み直すことにした。その好期の到来を直感し、それを逃が...(10/05/01)
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浮かび上がる事実 諦めなければ予想もしなかった事実と出会うものだ。収穫やせん定などの農作業の山が越したので、気をひきしめて夏の空襲記念日に向かって、調査活動を強めたところである。...(10/04/24)
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二通の案内状 私は、「論語」の「義を見てせざるは勇無きなり」の言葉が好きだ。「広辞苑」によれば、「義が貴い人道であることを知りながら、これを実行しないのは勇気がないものである」とある。対義語として「触らぬ神に祟りなし」...(10/04/17)
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地元紙と私(2) インターネット時代を反映してか、せとうちタイムズのホームページを見た読者からのメールが届くようになった。最近も東京都練馬区の方から、「突然ですが、御紙を知りました。島の歴史物語・瀬戸の伝道師ビッケル船...(10/04/03)
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島とともに(2) 地域(ローカル)の大切さに気付いたのは、因島にUターンしてからではなく東京での政治活動の最中であった。そのことは私の進歩であり、成長であった。 私が関わった政治は、世界的・全国的な視点と能力をまずも...(10/03/13)
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初心にもどりて 昨年暮れのことであるが、ひとりではっさくの収穫中に事故を起こした。いまだ原因は不明なのだが、足場にしていた二メートルの高さの脚立(きゃたつ)もろとも倒れ、地面にたたきつけられた。畑が斜面になっており、全...(10/02/27)
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学力の問題 塾生が学力をいかに身につけるか、これが学習塾の避けて通れない使命である。学習の立ち遅れを回復したい者、さらに学力を伸ばしたいと望むなど、様々な動機で入塾してくる。私はすべてを受けとめようと思った。塾での...(09/12/19)
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目黒から故郷へ 発端はささいなことだった。一旦は終の棲家と決めた東京での、25年にもおよぶ生活を捨てて故郷に帰ろうと決心したのは、アパートの大家の一言が原因だった。「洗濯機を使うのは決められた場所にしてください」と言わ...(09/11/21)
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