ふたりの時代【23】青木昌彦名誉教授への返信

掲載号 08年11月29日号

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0歳の戦争体験(下)

 最近、因島空襲調査のなかで出会った出来事を通じ、あることに気付いた。それは、学生時代に激しく敢行したアメリカのベトナム戦争反対闘争や安保・沖縄闘争、在日米軍基地撤去闘争が、私の受けた空襲に一矢を報いる行為だった、と見ることができるかもしれないということである。それには、敗戦と占領から生み出された日本人の反米意識が反映していることは否定できないだろう。個人的には「0歳の戦争体験」もその源流になっているのかもしれない。反政府という主張より反米というそれの方が、心情的に抵抗が少なかったことは確かである。

 学生運動を引退したころ、学徒出陣で戦地に行った人に会い、その時の心境を伺ったところ、「全学連の君らと同じだよ。神宮外苑のスタンドを埋めた女学生の声援を受ければ、その女の子を守るために戦争に行こうと思ったよ」との返答がもどってきた。私は返答する言葉を失った。戦時下の出陣学徒と戦後の全学連を重ねて見ている人がいることに驚いた。

 さて最近、毎日新聞の広島県備後版に、因島空襲の調査の記事が掲載された。同紙全国版の「ひと」欄で私の活動が紹介されたことがきっかけとなって、資料が続々提供されているというものである。なかでも福岡教育大名誉教授の赤木祥彦さんから、空襲当時に米軍が作成したと見られる因島の地図が、私あてに送られてきたことが詳しく記されている。

 この地図は、日立造船因島工場や三庄工場が詳細に書き込まれており、空襲のための基礎的地図として使用されたと想像される。作成したのはAMS(旧米国陸軍地図局)であるが、私は学生時代にそれとは知らずに、この機関と遭遇することになる。

 10月18日の日本経済新聞夕刊にAMSについてコラムが掲載された。

 ―AMS地図製作の目的は爆撃だったが、占領政策の一環として戦後も政策が続いた。当初担当したのは米陸軍工兵隊の第64地形技術大隊。接収した東京・新宿の伊勢丹百貨店ビルを拠点とした。製作した地図は1万2千5百分の1、25万分の1などである。7年後の1953年に東京・十条の王子キャンプ(現陸上自衛隊十条駐屯地)に移転するまで新宿で活動したが、(後略)。

 ベトナム戦争が激化するなかで1967年、王子キャンプからAMSが撤去され、そのあとに野戦病院が開設された。戦地ベトナムから米兵の死体や負傷兵が運ばれ、東京・北区王子は戦場さながらの状況になった。当然、地元住民の反発は大きく、全学連も全力をあげて反対運動を展開した。その運動は1968年3月28日に頂点に達した。私はその日のことを、私の共著「全学連は何を考えるか」(自由国民社)に次のように記述している。

 ―ついに学生と地元労働者49名が基地内に突入し、将校宿舎を占拠して闘った。この日の夜には、王子駅前広場一帯で、1万をこえる学生・労働者・市民の大闘争が爆発し、王子を「闘いの街」と化したのである。

 この日の基地突入闘争の責任者は、当時全学連書記長であった私で、現場で逮捕され、やがて起訴され、多くの仲間と裁判闘争をつづけた。無論、当時「0歳の空襲体験」など意識したわけではないが、不思議な因縁を感じざるを得ない。

 改めて想った。1945年7月28日に米空軍から受けた空襲にたいして私は、一矢を報いたことになるのでは、と。私はその空襲を許せない。さらに、因島空襲の全貌を調べつづけ、その不当性、非人道性を告発していくだろう。空襲で亡くなった私と同じ「空襲の子」の叫びに応えるためにも、そうでありたい。

(青木忠)

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