戦争体験記 平和への祈り 小林美喜夫さんが語るシベリア抑留体験【上】

掲載号 07年12月08日号

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 因島重井町の小林美喜夫さん(88)は平成13年4月、「八十路の回顧―運根鈍」を自費出版し、そのなかでシベリア抑留体験について詳しく語っている。「むすび」のなかで小林さんは、その出版の動機を次のように記している。

小林美喜夫さん

―私の長かった人生を振り返って思い出すままに書き残しておいて、何かの時に子や孫達が之を読んでくれて、父や母は、或いは祖父母はこのような生き方をしてきたのか、と言って何かの参考にして呉れれば良いがと思って書き残しました。

 ある書物に記された経歴にそって、小林さんの人生の足跡をたどってみよう。

 元職のところに陸軍曹長農業協同組合理事とある。大正8年3月2日、御調郡中庄村(現在の尾道市因島中庄町)の小作農宮地悦吉氏の9人兄弟の次男として生まれた。中庄尋常高等小学校を卒業後、大阪の東洋製作所に勤め、旋盤技術を磨く。

 昭和15年4月、西部六部隊(野砲兵第五連隊)第一中隊に現役入隊。初年兵教育を受け、下士官候補に志願し、同年12月東京陸軍獣医学校に入校、200人中10番以内の成績で卒業。原隊に復帰し、蹄鉄工務兵の教育係を務めた。

 昭和17年小林家の婿養子に迎えられ、豊子さんと結婚する。先代留二さんは自転車店を経営。

 昭和18年9月、満州への転属のために下関港を出帆し、釜山に上陸。朝鮮半島を北上し満州に入り、ハイラルで満州二六四六部隊(第十九野戦貨物廠)に転属。昭和20年、鄭家屯に移動。

 8月8日ソ連参戦、8月15日終戦。奉天で終戦を迎え、そこで武装解除され、ソ連領シベリアに連行される。アバカン地区のコムナール収容所に抑留され、伐採作業や町工場で旋盤作業に従事。

 飢えや寒さのために、半年間で3分の1の約50人の戦友たちが死んだ。小林さんは、旋盤技術を修得していたために町工場に旋盤工として勤め、ノルマ以上の実績をあげ、食糧も増えて命拾いした。ナホトカを恵山丸で出帆舞鶴に上陸し、両親、妻と再会したのは昭和22年5月17日のことであった。

 日立造船因島工場に入社約30年間勤務し、一男二女を育てた。昭和52年退社後畑を購入して農業に従事するかたわら地域の世話役を果たしてきた。

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