空襲の子【66】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越え 初の因島市長選(下)

掲載号 07年12月08日号

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 初の因島市長選の結果が出た。

当選 安松延二 7864
次点 宮地 弘 7445
   巻幡敏夫 5369

 安松は、日立造船をバックに巻幡を攻め立て票をそぎ落とし、因北地区を手堅くまとめた宮地をかわして初代市長の座についた。大差をつけられた巻幡の敗北には、公職追放の無残な傷跡が見て取れる。

 公職追放解除間もない巻幡陣営に対して、安松陣営は、「公職追放」を最大の攻撃材料にした。巻幡を戦犯と決めつけ、「国賊」とまで罵倒し、選挙の争点を戦争犯罪人と戦争被害者の対立として描き出そうとした。しかし巻幡自身はそれに対して何ひとつ釈明も反論もしなかった。

 ところで当時、日立造船の関係者に巻幡を「戦争犯罪人」として指弾する資格があったであろうか。巻幡の公職追放の理由は、土生町の大政翼賛会会長であったことである。その副会長は義弟の巻幡進と日立造船因島工場長であった。日立造船因島工場は一万人もの人間が働く大軍需工場であった。それを中心に因島など島嶼部は、住民をあげて戦争勝利にうって一丸となった。

 労働組合はどうであったか。日立因島工場を中心とする因島労働組合は当時、総同盟の牙城であった。総同盟は太平洋戦争突入を前にした昭和15年7月、率先して解散を決定。それをうけて因島労働組合も解散を決議、産業報国会の中心部隊になっていくのである。

 米空軍は2度にわたって日立造船を中心に因島を空襲し、100名をはるかにこす犠牲者をだした。終戦後GHQは、因島工場を賠償工場に指定した。工場がなくなる危機が訪れたのである。立ち上がったのは、巻幡敏夫ら土生町や三庄町の町民代表であった。代表団は上京してGHQにたいして直談判。「私共は町村民の死活の問題だから、実施視察をしていただけなければ帰れない」と要求し、ついに賠償指定解除をかちとった。

 因島労組は、戦中と戦後とでは豹変した。戦中は組合を解散してまで日本の戦争遂行に率先して協力し、敗戦となるやGHQに積極的に協力した。中央上層部の松岡駒吉や西尾末廣らはマッカーサー司令部の相談役になっていた。同じ職場で働いていた多くの仲間が、米軍の空襲で犠牲になったにもかかわらず完全に沈黙した。因島工場救済に命がけで立ち上がった巻幡への公職追放に対して、異議申し立てをしないばかりか、GHQの尻馬にのって攻撃を加えることに熱中したのだ。

 あの世界史的な戦争は一部の指導層の企てによって起きたわけではない。最終的に国民総動員の戦争としてあった。誰かに騙されて戦争に動員された者など一人もいなかったはずだ。そうであるにもかかわらず、「戦争責任」をただひとりの人物になすりつけ、自らだけは「免罪」を願うことほど、大戦の時代に生きた日本人として恥ずべきことはないであろう。

池田勇人と巻幡敏夫
大蔵大臣時代の池田勇人と巻幡敏夫。

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