空襲の子【6】因島空襲と青春群像 報道が伝えたもの 映像が残っていた

青木忠

 「因島空襲の写ったフィルムを持っているよ」という電話には驚いた。今年の7月のことである。やがてその電話の主である尾道市向島町在住の花咲清康さんから、ビデオとDVDが届いた。また、雑誌に掲載された因島空襲の写真が同封されてあった。これらはいずれも誰でも見ることができたもので、見過ごしていた無関心ぶりをただ、恥じ入るばかりである。


 映像は、米軍が日本を空襲した際に撮影したフィルムの一部で、戦後50年にあたる1995年に青森放送が日本テレビの「ズームイン朝」で2回にわたって公開したものである。番組のなかで福留功男キャスターは、この映像が日立造船因島工場への空襲を撮影したものだと断定している。当時、同工場で働いていて空襲を受けたふたりの方に見ていただいたが、「間違いない」との答えが返ってきた。
 このフィルムは空襲をしながら撮影するという極めて非人道的なものであるが、空襲の実態を多くの人に知ってもらうために、見ていただいている。今後も希望に応じてその集会をつづけていきたいと考えている。
 ところで、さらにわたしを驚かせたのは、東京時代のわたしが見たであろう雑誌に因島空襲の写真が掲載されていたことである。1980年に毎日新聞社が発行した、「別冊一億人の戦後史 銃後の戦史」(絶版)である。因島図書館の新着図書コーナーに郷土資料として並べられている。
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 その写真説明には、「米英艦隊から発進した航空機が20年7月29日(原文のまま) 九州北部から瀬戸内海 さらに駿河湾までの一帯に大空襲を敢行した 写真は因島の日立造船所が空爆を受けているところ」と記されている。なぜこのことに気付かなかったんだろう、ただ情けない。封印されていたのではない、ただ無知だっただけだと、反省するしかないのである。
 わたしが初めて報道機関に働きかけたのは2002年のことである。7月24日の中国新聞に、「自宅一帯爆撃 母が守ってくれた」「因島空襲後世に」「体験の青木さん調査計画」「28日演奏会 防空ごう前 協力訴え」という見出しの記事が掲載された。中国新聞因島支局長であった林仁志記者の取材をうけ、初めて報道機関に胸の内を明らかにした。
 わたしが知っているかぎりではこの記事が、地元関連の報道機関による因島空襲についての最初の報道ではないかと思う。しかしそれはわたしの思いこみで、そうでないかも知れない。ご存知の方は教えていただきたい。事実、先にのべた日本テレビの「ズームイン朝」を当時見たと、因島在住の人が教えてくれた。
 そもそも昭和20年の因島空襲の事実は報道されたのであろうか。広島や長崎の被爆報道も直後・戦後を通じて困難をきわめたと聞いている。因島空襲についてはいっそう絶望的であったであろう。万が一、報道されていたとしたらそれは、ひとつの希望である。

(つづく)

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