空襲の子【4】因島空襲と青春群像 封印された空襲(下)父への詫び状

青木忠
 わたしは、父から空襲体験を継承することに失敗した。素直にそれができていればこんなに苦労することはなかったのに、大きく空襲の実態に迫ることができたのに、と悔やまれてならない。誰が封印したのか。0歳の身で空襲を体験していながら、その自覚のないまま戦後を生きてきた自分自身ではないのか、とさえ思えてならない。


 空襲の調査を始めて知ったことだが、息子には語らなかった父は、わたし以外のかなりの人と空襲の話をしていたらしい。そのことに気付くたびに悔しい想いにかられた。ところが、その主要な原因がわたしにあることを最近、思い知ることになった。
 それは、広島大学時代にわたしが父を問いつめた「戦争の時、なにをしていたのか」という無神経な言葉だった。それは、教師になるという親の期待に反して学生運動の指導者の道を歩んだわたしをたしなめようとした父への反論のつもりであった。
 父は顔をゆがめ、「もうお前と話をしてもしょうがない」と言って沈黙した。その時以来、父と子が心を通わす会話がほとんどなくなってしまった。わたしはその一言で「松本家の空襲体験」を切り捨ててしまったのだ。
 0歳といえどもわたしは生を受けて家族の一員であった。家族全体が被害を受けたのであり、わたし一人が被害者ではなかった。それぞれが家族の一員として戦時を生き抜いてきたのだ。両親と祖父母も、兄も姉たちもなすべき精一杯のことをやったと思う。そして家屋全壊という苦難を乗り越えて戦後を生き抜き、5人の子どもを育てあげてきた。そのことへの感謝の気持ちを一言も語ることなく父と別れることになってしまった。
 先に紹介した吉田満著「戦中派の死生観」が提起する内容が、容赦なくわたしに迫ってくる。そのなかの「戦後日本に欠落したしたもの」で吉田満氏は次のように述べている。
 ―日本人は「戦争のなかの自分」を抹殺するこの作業を、見事にやりとげた、といっていい。戦後処理と平和への切り換えという難事業がスムーズに運ばれたのは、その一つの成果であった。
 しかし、戦争にかかわる一切のものを抹殺しようと焦るあまり、終戦の日を境に、抹殺されてはならないものまで、断ち切られることになったことも、事実である。断ち切られたのは、戦前から戦中、さらに戦後へと持続する、自分という人間の主体性、日本および日本人が、一貫して負うべき責任への自覚であった。
 確かに空襲体験はわたしにとってつらくて思い出したくもないものであったであろう。わたしは太平洋戦争という時代を、その時代に生まれともに生きたという事実を生前の父と共有することができなかったのだ。「戦中」と呼ばれるそうした時代を忘れることでわたしは戦後を生きてきたのかも知れない。ようやく今、その自覚が芽生えてきたということができる。
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昭和38年正月の父・松本隆雄と母・行。空襲で全壊したわが家の跡地で。私が高校3年生の時である。

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