因島にて… つかみかけた確信【67】

時代遺跡の島(18)

現代史への責任(3)

著者のフレッチャー‐クック氏は、因島収容所内での虐待行為について、冷徹な観察眼をもって次のように分析している。

―もちろん、土生においても打擲のあらしはあった。しかし、少なくともそれなりの理由がなかったわけではない。あるいは捕虜がボタンをはずしていたとか、あるいは気づかずに日本軍将校に敬礼をしなかったとか、あるいは点呼に数秒にせよ遅刻したとか、…。

さらに収容所の所長たちのやり方を「アマ」であるとし、「ソロモン群島の戦線で鍛え抜かれた猛者」を「プロ」と称して、比較している。その「プロ」は、所長らを、「一日中ケツを落ち着けている事務員にすぎん」と罵る。しかし因島では、「プロ」の完敗に終わり、通常の秩序に戻った。「土生は〝武士道〟にこりごりしたわけである」と、皮肉っている。

著者は、虜囚の全期間を通じて、戦争の推移について日本人と話し合うことに努めたという。

―1945年になってから、私はそんな日本人の一人がつぎのように語るのを聞いた。「もしアメリカ軍が神聖なニッポンへ上陸したら、その冒?に対して、われわれは数十万におよぶ代償を払わせてやる。捕虜などみな殺しにしてやる。降伏なんか決してしない。…」

これを著者が聞いたのは、善通寺収容所乃至は福岡県宮田の炭鉱にいたときのことだと思われる。日本の敗北が決定的になるにつれて、捕虜たちの命運が最悪のものになるであろうとの不安は拡大していった。しかし、敗戦時の日本軍による捕虜虐殺は回避された。

2007年春、私のもとに2枚の写真のコピーとメモが寄せられた。ロンドンの国立公文書館に保存されている、因島収容所の英国捕虜隊長ハロルド・プリチャード関係資料の一部である。解放され、帰国する直前に、因島三庄町の折古の浜海水浴場で体操する英軍捕虜たちが写っている。それに、隊長のメモが添えられていた。

―対日戦勝日の後、米空軍から食糧、充分な米、新鮮な野菜や肉によって、男たちは急速に体重が増していった。1945年9月15日の解放日まで、もっとも体調のいい約百人の男たちは体操、水泳、フットボール、及び行き帰りの行進にきちんと参加した。

米占領軍は、日本敗戦から捕虜帰国までの1カ月の間、捕虜全員から事情聴取を行い、その供述に基づいて戦犯容疑者を逮捕した。彼らは、東京の巣鴨プリズンに送られ、そこで厳しく取り調べられた。BC級戦犯として裁かれたのは横浜裁判であった。因島収容所から、収容所長と軍属の捕虜係通訳、「ミニー」と呼ばれた軍属の三人に有罪の判決が下された。

―所長は、部下の残虐行為を放置し、所長としての職責を怠ったとして重労働2年、「ミニー」は捕虜にたいする虐待(殴打、打擲)の罪で3年、通訳も捕虜への虐待の罪で6ヵ月の判決を下された。――「連合軍の墓碑銘」(笹本妙子著)

因島収容所への判決は意外な内容で、他の収容所にくらべ軽いという印象であった。しかも、強制労働をさせた事業主は戦犯の対象になっていない。なぜ判決が比較的軽度なものになったのか、私にはよく分からない。

判決の証拠になったものは捕虜たちの供述がほとんどである。因島関係者への判決に、収容所内での当局と捕虜たちの関係が反映したのかも知れない。

(青木忠)

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