ふるさとの史跡をたずねて【167】西国三十三札所(因島重井町白滝山)

西国三十三札所(因島重井町白滝山)

しまなみ海道の各地や白滝山から見る景色は確かに素晴らしい。それらを世界的に見て一流の観光地だと思うのは勝手であるが、しょせん井蛙(せいあ)の夢に過ぎない。我々は、せめて二流の観光地を目指して、三流にならないように努力すべきであろう。

さて、白滝山の巨大な釈迦三尊像の南側にはぐるりと丸く、それも螺旋状に石仏を配置した西国三十三観音がある。写真うつりも良くなく、設計ミスだと思う。四国八十八ケ所御本尊などがあって、そちらの聖地になっては伝六さんゆかりの三十三札所がかすんでしまうと思って慌ててはめ込んだのかどうかは知らないが、良くない配置だと思う。

慈悲深い観音菩薩さまはなぜだか様々な武器を持っておられる。中には槍の先に刀を受ける鈎形の水平に伸びるものが付いていたりする。それを簡素に十字状に彫ったものもある。これがまた、ある人たちの目には十字架に見えたらしい。さらにそれに反発したのか、わざわざその部分を削った痕跡があるのには、複雑な気持ちになる。私はキリスト教徒ではないから、クリスチャンの気持ちはわからないが、こんなものまで十字架と呼ばれたら不愉快だと思うだろう。ところが、白滝山を隠れキリシタンの遺跡だと思い、時を隔てて同じ信仰の仲間を見つけたと思ったのか、喜んだ人がいたのには驚いた。白滝山の石仏群は作られた当時から多くの人に見てもらうのが目的だった。また、江戸時代のキリシタン禁制というのは、一部の地方の法律などというものではなく、徳川幕府そのものと言っていいほどの、最も厳しい法律であったことも忘れてはなるまい。

それでは白滝山の十字架というのは、何だったのだろうか。それは、戦前の鬼畜米英から一転して国際親善を教え始めた青い山脈の新制中学校教師、不勉強の新聞記者、二流と三流の区別のつかない観光推進者たちの、無知の連鎖が生み出した共同幻想だった、と私は思う。

ここが舞台と考えられる湊かなえさんの小説「石の十字架」は、タイトル通り愚史の記念碑として、長く読み継がれるであろう。

(写真・文 柏原林造)

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