2012年6月2日 / 最終更新日 : 2012年6月2日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【52】秀策の兄弟子本因坊秀和(終章)幕末囲碁界の背景 不運の秀和の生涯 秀和の日本棋院囲碁殿堂入りは弟子の本因坊跡目秀策の次の年でした。強さ、功績、どれをとっても歴代の名人上手に引けをとらない―と評価されています。一世代前の十二代本因坊丈和や井上家の幻庵因碩らの陰にかくれて […]
2012年5月26日 / 最終更新日 : 2012年5月26日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【51】秀策の兄弟子本因坊秀和(9)名人碁所願う争碁 先生、意外の不出来 文久元年のお城碁は本因坊と井上両家にとって争碁に劣らぬ遺恨試合が再現されます。このお城碁、井上因碩錦四郎の出来が素晴らしかったようです。前盤の布石から中盤にかけて黒先盤の錦四郎は好手を打ちつづけます […]
2012年5月19日 / 最終更新日 : 2012年5月19日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【50】秀策の兄弟子本因坊秀和(8)名人碁所願う争碁 江戸大地震お城碁中止 安政2年(1855)10月2日、江戸が大地震に見舞われ、この年のお城碁は中止されています。もっとも開港を迫る黒船の出没など日本の国内外の政治情勢もあわただしくお城碁どころではなくなっていました。
2012年5月12日 / 最終更新日 : 2012年5月12日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【49】秀策の兄弟子本因坊秀和(7)名人碁所願う争碁 因碩倒れ碁所断念 通算9日間にわたった碁所(ごどころ)就位をめぐる争碁は奉行所の都合で8日目が夜を徹して打ち続けられ白264で終局となった。秀和の4目勝ち。両者は精魂つき果てた大勝負だったが、体調不良で敗れた因碩の落胆 […]
2012年5月5日 / 最終更新日 : 2012年5月5日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【48】秀策の兄弟子本因坊秀和(6)名人碁所願う争碁 遊郭に逃げ込んだ秀和 閑話休題 囲碁対局で「打ち掛け」という用語があります。現代のように制限時間がなかった時代ですから勝負が決着するのに何日もかかりました。そこで、続きを翌日に持ち越すことを打ち掛けといいます。
2012年4月28日 / 最終更新日 : 2012年4月28日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【47】秀策の兄弟子本因坊秀和(5)名人碁所願う争碁 大一番開始の内幕 万全の布石を打ったはずだった本因坊丈和だが、丈和が引退して名人碁所が空席になると、井上幻庵因碩が待ってましたとばかり寺社奉行に碁所就位を願い出ました。
2012年4月21日 / 最終更新日 : 2012年4月21日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【46】秀策の兄弟子本因坊秀和(4)跡目とその跡目が継承 9歳の少年再び江戸へ 江戸時代の囲碁史の裏面をのぞいてみると、名人碁所をめぐって棋院四家が鎬(しのぎ)を削る抗争の時代であったともいえます。争碁は実力の勝ち負けで決まりますが碁所の座を獲得するには、実力以外の世才や幕府 […]
2012年4月7日 / 最終更新日 : 2012年4月7日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【45】秀策の兄弟子本因坊秀和(3)跡目とその跡目が継承 連れ戻された俊平 和三郎は、わが子の才能に期待をかけ江戸の頂点に立つ本因坊丈和の内弟子として預け伊豆に帰ってきました。丈和といえば当時の囲碁界では泣く子もだまる官賜碁所の地位にありました。囲碁の家元四家(本因坊、井上、 […]
2012年3月31日 / 最終更新日 : 2012年3月31日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【44】秀策の兄弟子本因坊秀和(2)天才児秀和の生い立ち 第十四世本因坊秀和は幼名を土屋俊平といい、文政3年(1820)生まれというから秀策より18歳年長である。土屋家は伊豆の君沢群小下田村だが先祖は甲斐武田の落人、土屋新左衛門を遠祖として代々名主をつとめた旧家だったと土肥町の […]
2012年3月17日 / 最終更新日 : 2012年3月17日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【43】秀策の兄弟子本因坊秀和(1)跡目とその跡目が継承安泰 天才児秀和のエピソード 日本棋院創立80年を記念して建設された囲碁殿堂記念館入りした本因坊秀策生家の代理として記念式典に出席しての帰途、静岡県三島駅で下車。友人の運転で伊豆半島の土肥町小下田に向った。幕末の名棋士本因坊 […]
2012年3月10日 / 最終更新日 : 2012年3月10日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【42】秀策改名のエピソード(6)本因坊家跡目の下心 跡目の跡目願い 二度目の江戸留学となる本因坊家預り弟子である安田秀策は三か年のうち毎年一段ずつ昇段という驚異の記録を残しました。天保14年囲碁姓名録によれば初段以上の有段者は全国で258人。そのうち四段は四家(本因坊、井 […]
2012年3月3日 / 最終更新日 : 2012年3月3日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【41】秀策改名のエピソード(5)本因坊家跡目の下心 登り竜の勢い 9歳で江戸・本因坊家へ入門。11歳で初段。13歳二段格、10か月後三段(13歳夏)昇進。天保14年、秀策15歳になってからは兄弟子や先輩との対局が多くなっていることが棋譜として残されている。この時代、秀策に […]
2012年2月11日 / 最終更新日 : 2012年2月11日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【40】秀策改名のエピソード(4)本因坊家跡目の下心 本因坊家の思惑 本因坊家にとって「百五十年来の碁豪」と秀策少年の天賦の才に惚れ込んだ碁家総元締の官賜碁所第十二世本因坊丈和。九段で名人。実力は俗に十三段ともいわれ、前聖は四世本因坊道策そして後聖が丈和に冠せられている。そ […]
2012年1月28日 / 最終更新日 : 2012年1月28日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【39】秀策改名のエピソード(3)本因坊家跡目の下心 14歳の夏 三段格に昇進 桒原虎次郎改め安田栄斎―秀策となり、この間、江戸では「安芸小僧」の名で話題にのぼるようになっていました。備後の国、因島生まれだが、他国の人たちは三原も尾道も備後でありながら安芸広島浅野藩の分家筋 […]
2012年1月21日 / 最終更新日 : 2012年1月21日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【38】秀策改名のエピソード(2)本因坊家跡目の下心 9歳で江戸・本因坊家に入門した安田栄斎。弘化元年16歳で2度目の帰郷。弘化3年17歳のとき三原城主浅野甲斐守より増禄の沙汰があり秀策自身江戸の家元を背負って碁界の頂点に立とうという野心はなかった。身分はあくまで三原藩士に […]
2012年1月14日 / 最終更新日 : 2012年1月14日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【37】秀策改名のエピソード(1)本因坊家跡目の下心 栄斎改め秀策 大阪で大金星をあげた安田栄斎(寛斎)は江戸車坂の本因坊家の道場に入ったのが8月末のこと。栄斎にとっても転機となる二つの出来事が待っていました。
2011年12月24日 / 最終更新日 : 2011年12月24日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【36】「耳赤」のエピソード(7)起死回生の一石三鳥の妙手 天皇も興味そそられる 大阪での「耳赤の局」は京都に伝わりました。大阪で栄斎と対局、中押し敗けした中川順節から京都に居た河北房種五段にその時の棋譜がとどけられ「これが13歳の少年か…」と着手の手順に非凡なことに驚きました。 […]
2011年12月17日 / 最終更新日 : 2011年12月17日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【35】「耳赤」のエピソード(6)起死回生の一石三鳥の妙手 百五十年来の門風 虎次郎改め安田栄斎は天保8年11月、芸州浅野家の家臣寺西右膳に連れられて出立。年の暮れに江戸は上野車坂下の本因坊家道場に着いています。年わずか9歳で、当時は成人すればお伊勢参りに別れの水杯(みずさかずき […]
2011年12月10日 / 最終更新日 : 2011年12月10日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【34】「耳赤」のエピソード(5)起死回生の一石三鳥の妙手 秀策青年の芸道秀逸 この対局から3年後の嘉永2年2月。幻庵因碩は中国筋を行脚の途中、尾道を訪れ、豪商橋本竹下茶園で町の人の問いに答えて「秀策の芸道は秀逸。18歳にて既に上手(七段位)の域に達する力を備え、その上、今後ど […]
2011年12月3日 / 最終更新日 : 2011年12月3日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【33】「耳赤」のエピソード(4)起死回生の一石三鳥の妙手 耳赤3日がかりの碁 当時としては時間制限もなければコミもありません。プロ・アマの段・級位は同格でした。因碩八段に対し秀策四段の最初の一局は黒2目で打ち、あまり時間をかけずに打ち掛け(勝負中断)、都合5回の対局のうち秀策3 […]
2011年11月26日 / 最終更新日 : 2011年11月26日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【32】「耳赤」のエピソード(5)起死回生の一石三鳥の妙手 耳赤の歴史的誤伝 耳赤の対局は当時としては珍しい三日がかりの碁。どのくらい時間が使われたのかは不明です。それにしても幻庵因碩準名人八段に秀策四段は二子戦の手合い割りが順当。初日の二子の打ち掛けに引き続いて2日目も打ち継 […]
2011年11月19日 / 最終更新日 : 2011年11月19日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【31】「耳赤」のエピソード(4)起死回生の一石三鳥の妙手 安田秀策黒先で金星 秀策を黒定先と認めたのは十一世井上幻庵準名人八段の方からでした。この頃の手合い割によると対局ごとに黒をもつ二段差のハンディーです。安田秀策は芸州浅野藩士並みに増禄を受け本因坊家への入門はあくまで「預り […]
2011年11月12日 / 最終更新日 : 2011年11月12日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【30】「耳赤」のエピソード(3)起死回生の一石三鳥の妙手 上府の途中、大阪(当時大坂)に立ち寄った秀策は訣(わけ)あって当地へ3か月も滞在することになります。おそらく中川順節が井上家の師匠で準名人の幻庵因碩の帰阪を待ち秀策と対局させようという魂胆から色々な理由をつけ引き留められ […]
2011年11月5日 / 最終更新日 : 2011年11月5日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【29】「耳赤」のエピソード(2)起死回生の一石三鳥の妙手 秀策の生涯で5本の指に入る有名局として「耳赤の一手」は伝えられている一つで、姓を安田と名乗っていた天保14年、15歳で四段の免許を受けた頃から「一、三、五」の秀策流を試みはじめています。弘化元年、16歳。10月に江戸を […]
2011年10月29日 / 最終更新日 : 2011年10月29日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【28】「耳赤」のエピソード(1)起死回生の一石三鳥の妙手 十一世井上幻庵因碩と対局 秀策は9歳で江戸の本因坊家に入門、故郷因島外浦に4回帰郷している。2回目の帰郷も一年余りを過した弘化3年(1846)18歳の春4月。3度目の江戸に向け出発します。この度の出府では途中大阪で2人の […]
2011年10月15日 / 最終更新日 : 2011年10月15日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【27】安政4年四度目最後の帰郷 中四国行脚と因縁の出会い 孫子の兵法と囲碁十訣 孫子の兵法と囲碁十訣は本質も部分面でも共通点が多くあることはいうまでもありません。戦国時代の武将の一人として名を残している甲斐の国主、武田信玄の軍旗に記された孫子の句「風林火山」が一般に知られてい […]
2011年10月8日 / 最終更新日 : 2015年4月10日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【26】安政4年四度目最後の帰郷 中四国行脚と因縁の出会い 貪れば勝を得ず (先週号につづく)この石谷廣二という人物ですが明治維新で徳川幕府の庇護を失ったあと棋士たちが力を合わせ再興した日本棋院の前身である方円社の初代理事長瀬越憲作名誉九段と同郷、広島市の南にある能見島の出身。瀬 […]
2011年10月1日 / 最終更新日 : 2011年10月1日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【25】安政4年四度目最後の帰郷 中四国行脚と因縁の出会い 「碁聖本因坊秀策」の著者で尾道市の樫本清人氏は水谷縫次について、次のように書き残しておられます。
2011年9月24日 / 最終更新日 : 2011年9月24日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【24】安政4年四度目最後の帰郷 中四国行脚と因縁の出会い エピソードその三 徳川幕府が崩壊、庶民の生活文化まで夜明けを迎えようとしていた明治時代前期の囲碁界の鬼才といえば水谷縫次(1846―1884)が隠れた存在にいる。尾道―今治を結ぶ、しまなみ海道の来島海峡をのぞむ大島出身 […]
2011年9月17日 / 最終更新日 : 2011年9月17日 times 碁打ち探訪今昔四方山話 碁打ち探訪今昔四方山話【23】安政4年四度目最後の帰郷 中四国行脚と因縁の出会い エピソードその二 本因坊十四代跡目秀策と怪力で名をとどろかせていた尾道済法寺住職竹田物外不遷和尚は讃岐(香川県)丸亀の「金毘羅宮(こんぴらぐう)」をあとにして高松を訪れました。