碁打ち探訪今昔四方山話【28】「耳赤」のエピソード(1)起死回生の一石三鳥の妙手

十一世井上幻庵因碩と対局

秀策は9歳で江戸の本因坊家に入門、故郷因島外浦に4回帰郷している。2回目の帰郷も一年余りを過した弘化3年(1846)18歳の春4月。3度目の江戸に向け出発します。この度の出府では途中大阪で2人のプロ棋士と記念すべき対局がありました。その一つは中川順節五段との対局でした。中川五段とは2回目の出府の時二子を置いて指導をうけ全勝。この度は新進気鋭の四段。大阪市内の辻忠二郎宅で5月3日から打ち始め6月初旬まで四局を打ち終えています。結果は秀策全勝。この当時は時間制限もなくプロ、アマの段位の差もコミもなかった時代で特筆するとすれば第2局で一、三、五のいわゆる"秀策流"が試みられていました。

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いま一人の相手は当時強手として名の聞えていた格上の第十一世井上因碩(幻庵)です。囲碁史上井上家歴代は十六世まで因碩(いんせき)を名乗り、十一世は幻庵因碩ともいい、当時準名人位(八段)であり棋力の充実した棋士として評判高かった。

幻庵因碩は武士の出で姓は橋本。6歳の時、囲碁の道を志し12歳で初段。文政7年第十一世を襲名、同11年準名人。天保11年12月井上家を代表して本因坊家第十三世丈策の跡目秀和と宿命の"碁所"をかけて命がけの"争い碁"を打ち、武運つたなく破れて碁所を断念したことは囲碁史上有名な話です。幻庵は後年、大阪で後進のため指導を行なっていましたが「坐隠談叢」によれば「因碩の容貌は満面に黒あばたありて眼光鋭けれども敢えて獰悪(どうあく=にくたらしくたけだけしい)ならず。能く子女を馴れ親しむる愛嬌を有せり」とあり、井上家中興の主とも称されている。

弘化3年7月20日、まず最初の1局は規定により八段と秀策四段だから二子で闘った。秀策優勢で段位差にかかわらず"手合い違い"。102手で打ちかけ中止。あらためて秀策"先"で打ち直すことになった。ともあれ本因坊家と井上家にとっては因縁深い中での対局が実現したので大阪では評判になった。(つづく)

写真は耳赤の闘いをスナエで描いた作品「九頭龍の宇宙」。

(庚午一生)

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