碁打ち探訪今昔四方山話【46】秀策の兄弟子本因坊秀和(4)跡目とその跡目が継承

9歳の少年再び江戸へ
 江戸時代の囲碁史の裏面をのぞいてみると、名人碁所をめぐって棋院四家が鎬(しのぎ)を削る抗争の時代であったともいえます。争碁は実力の勝ち負けで決まりますが碁所の座を獲得するには、実力以外の世才や幕府の権力にとりいる政治力も必要です。こうしたなかで本因坊家は、歴代他の3家を押えてタイトル保持をつづけている名門で、俊平が入門した文政11年の当時、師匠の十二世本因坊丈和が名人碁所の地位についていました。


 丈和には俊平と同じ年の梅太郎という息子がいて、二人の少年は良きライバルとして腕をみがきあいました。梅太郎は、のちに碁所をめぐっての争いが絶えなかった井上家の養子となって道和(節山)と称し本因坊家と和解したことについては後述することにして先を急ぎます。
父の急死
 俊平が11歳になった文政12年(1830)の秋。父和三郎が江戸に出てきて急死するという悲しいできごとが起ります。
 この年、小下田と隣接する宇久須で山林をめぐる争いが起きたため和三郎は小下田を代表して江戸にやってきました。息子の俊平にも会って順調な成長ぶりを聞かされ喜んでいましたが、その数日後、宿舎であっけなく急死してしまいました。一説によれば反対者に毒殺されたともいわれています。まだ38歳という若さでした。
 俊平は遺骸にとりすがり囲碁の大成を誓ったことはいうまでもありません。彼はますます研鑚を積み、13歳で剃髪して名を秀和と改めます。本因坊門では有段者は全員頭をまるめるしきたりになっていて、武士でいうなら元服です。以来、15歳で三段、16歳で四段、17歳で五段、19歳で六段と、秀和の実力は着実に伸びていきます。
丈和の秘策 跡目の跡目
 天保10年(1839)11月、十二世本因坊丈和は引退して先師十一世元丈の長男丈策を第十三世本因坊とし、同時に跡目を土屋秀和に指名しました。跡目といっしょに次の跡目まで決めるとは念が入り過ぎていますが本因坊一門の栄光の道を保持していくための丈和の苦心の布石であったわけです。丈和がもっとも警戒していたのは第十一世井上因碩(いんせき・幻庵)でした。井上家を名人碁所に就かせるよう、さまざまな策を用いて寺社奉行に働きかけ機会あるごとに丈和に挑戦していました。
 丈和は自分の引退後のことを思うと不安だったに違いありません。そこで、人格識見を備えた丈策と実力者の秀和のあとに秀策をセットにして安泰の布石を打ったというわけです。
(庚午一生)

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