「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【42】第七章 君たちへ

仲宗根一家の悲劇を調べて行けば行くほど、なぜその記録が残されていなかったのか、残念の想いが募るばかりである。その正反対の事例を知ってからなおさらそうである。

宮崎県の西小林市立西小林小学校の校庭に「殉難者の碑」がある。それには次のように刻銘されている。

昭和20年8月10日午前9時 第二次世界大戦中

西小林駅前において西小林国民学校児童を主体に編成する勤労奉仕隊に突如飛来したアメリカグラマン機の機銃掃射弾は 哀れ十名の尊き命を奪った

ああ 呼べど声なき みたまよ とこしえに安らかなれと念じ ここに碑を建立する

西小林小学校のことは、「沖縄学童たちの疎開」(琉球新報社発行)に詳しく記述されている。そこから引用してみよう。10人のうち2人が沖縄の学童疎開児である。この惨事は学校日誌に詳細に記述されている。そのページの写真が掲載され、次のような写真説明がある。

昭和20年8月10日。惨事を記した西小林国民学校の日誌。欄外にびっしり犠牲者の名前が記されている。

慰霊碑建立を中心になって推進したのは、娘がグラマン機の攻撃の犠牲になった永野浅雄氏(故人)である。彼は沖縄の疎開学童を何かと面倒を見ていた。建立の経過は次の通りである。

後に永野は、慰霊碑の建立に尽力、遺族や本人を訪ね歩いて死亡者・負傷者の「名簿」を作製、遺族代表として国へ謝罪と遺族救済を訴え続けた。そして西小林地区の人々の浄財と遺族の拠出金で、一七七二年四月二十四日、西小林小学校(旧西小林国民学校)の校庭に「殉難者の碑」が完成し、午後3時から除幕式が執り行われた。

宮崎県西小林市の永野浅雄氏のことを知って私の脳裡に実父のことが浮かんだ。父に永野氏と同じ苦労をして欲しかったと思ったのだ。いやもしかしたら父は未完に終ったのだが、そのようなことをしたかったのではないか。

父は空襲があった時間に勤務先の地元の小学校にいた。「手記」には次のようにある。

7月頃、この日は朝から艦載機の襲撃がありました。しばらくして空襲警報と同時にB29の爆音がきこえ15機位で日立造船の土生、三庄が爆撃を受けました。

私はこのとき学校におりましたので南の方をみておりました。三庄工場の方で爆弾が炸裂する地ひびきが数回しました。飛行機が去った後現地を見に行きましたら七区の私の家附近に池のような穴が出来て家は跡かたもなく飛び散っておるのです。

この付近の家も破壊されて大混乱でした。この時十数人の死者があったことを思い出します。

この文章は当時教員であった立場で書かれており、個人のそれではない。しかも空襲からおよそ四十年を経て記されたものだ。

それとは違って父が、一家の主として父として、しかも空襲直後に記した「メモ」が遺品のなかに見つかった。それは、父が昭和9年からつけはじめた「家のこと」と題する小型のノートの裏表紙にあった。それだけは特別に赤鉛筆によるものである。

爆撃
昭和廿年七月二十八日
午前十時二十分頃

(青木忠)

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