「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【41】第七章 君たちへ

「カキノ屋」の近くに立っていた、ひとりの大人が、「助けてくれ」と叫んでいるのは、そこで働いていた外国人だと言ったという。全く予期してなかったことである。「外国人」という言葉に私は強く反応した。

その大人が言う外国人とは誰のことを指すのか。私はかなり混乱した。仲宗根さんのお祖母さんのことなのか。しかし、その問いを誰に投げかければよいのか。

私はしばらく悶々とした日々を過ごすことになった。やがて最適な人物に出会う幸運を得た。東京に出張した際に新宿の路上で偶然にも、私とは取材関係にある、沖縄の新聞「琉球新報」の記者に会うことができたのである。記者は私用で東京に来ていた。

事がらが事がらだけに電話やメールで訊くわけにはいかない。まさに千載一遇のチャンスと思った。簡単な説明を行い単刀直入に尋ねた。

「当時、本土において沖縄の人は外国人と見られたことがありますか」

記者はしばらく間をおいて口を開いた。

「空襲当時のことですよね、そうですね、ウチナーグチを使っていたらそのように思われたかもしれませんね」

「ウチナーグチ」とは沖縄方言のことであるが、記者の話を聞いてあることに納得したのである。もちろん、これだけで、外国人と見られたのが仲宗根さんのお祖母さんであると断定するつもりはない。ただ、彼女はきっと地域に馴染めず、心を許せる人も皆無だったように思えてならないのである。

空襲の犠牲になった仲宗根さん一家の母と子の六人は防空壕に入らず、自室に留まった。防空壕に避難せよとの指示を一家は断ったという。その話を聞いて、一家が置かれていた状況が思い浮かんだ。地域の住民とともに壕に入りにくかった何かの事情があったのかもしれない。

同じ一発の爆弾に襲われたことから私は、自らの境遇と仲宗根一家のそれを比較せざるを得ない。私の家の被弾はすぐに街に広まったようだ。国民学校高等科の学徒動員生の証言に次のような場面が出てくる。

先生は言いました。松本先生のとこの家族が家の防空壕に入とって、カキノ屋というとこに爆弾が落ちて生き埋めになっとる。それで自警団が助けに行っとる。

松本先生とは当時地元の国民学校(小学校)の教師をしていた実父のことである。生き埋めになっていた家族は、生母と祖母、そして私である。わが家は自宅に防空壕を備えていたようだ。

教師は地元の名士だったのであろう。真っ先に自警団が救済に駆けつけたことが伺える。

当時、少年だった人から次の話も聞いた。

「あの時埋もれていた赤ん坊はあんただったんか。助けるのに大変だったんで。警報が出る度に防空壕に入ったり出たりして、あんたを助けたんで」

母と祖母と私を救出するためにどれだけの人が手を貸してくれたのであろうか。一刻を争う緊迫した作業だったはずだ。手遅れになれば仮死状態の私はきっと絶命したに違いないのである。そのお陰で私は蘇生し、今もなお生きているのである。

仲宗根一家の最期は余りにも悲しい。沖縄から避難した大阪からの因島移住の直後における惨劇である。知人も友人もいない異郷である。右も左も分らず、周囲の環境にほとんど溶け込めないままの突然の死である。淋しさはいかほどであったであろう。ひとり残された祖母の嘆きの深さははかりしれない。

(青木忠)

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