ふたりの時代【14】青木昌彦名誉教授への返信

二通の起訴状 下
 破壊活動防止法違反の起訴状は、4月28日沖縄デー闘争について、8日から11日も前に私が行った、3カ所での演説を犯罪であるとしたものである。4月17日の東京都文京区の文京公会堂、4月20日の新宿区明治公園と千代田区日比谷公園である。


 日本国憲法下の法体系では本来、演説行為とその内容を罰することができない。ところが特別の場合は可能であるとしたのが、1952年(昭和27)に公布された破壊活動防止法である。私のそれらの演説が、起訴状の結論にあるように、政治目的をもってする、公務執行妨害、騒擾の罪の実行のせん動とされた。
 もともと破防法は条文のなかで、「この法律は、国民の基本的人権に重大な関係を有するものであるから、公共の安全の確保のために必要な最小限度においてのみ適用すべきであって、いやしくもこれを拡張して解釈するようなことがあってはならない」と謳っている。事実、破防法が本格的に適用されるのは、公布されてほぼ20年を経た1969年の4・28沖縄デー闘争であった。
 同様のせん動罪で私をふくめ5人が被告人にされた。政治組織の代表2人、戦闘的な労働運動の代表1人、学生運動の責任者2人である。「公共の安全」を脅かすと国家が判断した場合は、言論活動である政治演説さえもが罰せられる時代になったのだ。
 じつは広島大学時代、学生運動への道を決心するうえで破防法について悩みぬいた。当時、作家小林多喜二の治安維持法による拷問死は、依然として生々しい事件としてあった。その戦後版としての破防法の弾圧に自分が耐えられるか、であった。それから数年後、わが身に真っ先にふりかかってこようなどとは、予想だにしなかった。因縁めいたものを感じたのを今でも鮮明に思い出す。
 もうひとつの起訴状は、1969年4月28日当日の闘争についてのものである。停止したすべての新幹線が行儀よく線路上に並んでいる情景は、まるで昨日のごとくである。その時に感じた爽快さは、今でも消えることはない。むろんそれは一瞬のうちに消し飛ぶのであるが。学生たちは、警視庁機動隊の精鋭部隊に線路上で挟撃され、あたり一面は修羅場と化した。
 その年の11月に予定されていた佐藤栄作首相の訪米阻止をかかげて全学連の部隊は、線路上を通って新橋駅に集結し、付近で待ち受けていた多くの学生たちと合流して、首相官邸をめざした。しかし私は、最後まで参加できなかった。線路上から道路上に脱出するさいに、歩行不能の重傷を負い、救出された。ここで私の学生運動は終った。24才の春だった。その闘争は、不治の後遺症として私の肉体を、今なお支配しつづけている。
指名手配下の闘病生活になったが、事件から10カ月後、別の事件の判決を受けた直後、東京地方裁判所内で検挙され、間もなく起訴された。警視庁の留置場では、グループサウンドの大スター、ザ・タイガースのボーカル加橋かつみといっしょになった。マリファナを吸っていたという。そうした時代でもあった。
 やがて生活の場は、豊島区池袋の東京拘置所の独房に移った。ああここが、東条英機らA級戦犯たちが勾留され、処刑された「巣鴨プリズン」なのか、などと回想したのもなつかしい。公判が開始されたのは1970年の夏だった。無論、手錠をつけての出廷である。保釈されたのは、1年1カ月後の春だった。
 事件後ほぼ2年がたち、環境はすっかり変貌していた。当然のごとく自らも大きく変わった。1969年4月28日は私の人生を決めた。それは決してエレジー(哀歌)として人生の間口を狭めるのではなく、むしろ逆に、その可能性を大きく広げた。自らの個としての独自性に目覚めたのも、その時だったのかも知れない。

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