「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【23】第五章 運命の電話

一本の電話がこんなに私の行先を左右するなんて予想もしなかった。昨年三月にかけた、沖縄の対馬丸記念館への電話はそのような意味を持っていた。
「初めてお電話いたしますが、広島県尾道市因島の青木というものです」
あまり体験したことのない緊張にいささか口調が上ずっていたが、強引に用件を切り出した。
「昭和20年に私の町で空襲がありまして、沖縄から疎開してきていた仲宗根さんの家族が亡くなりました。そのことを調べているのですが、どのようにしたらよいのか分らなくて困っています」
応対をしてくれたのは野原淳子さんという女性である。彼女の受け答えが私を落ちつかせたのか、
「こんなことになるのなら、三〇年前に沖縄に入りびたっていたころに対馬丸記念館に行けばよかった」
私は思わず軽口をたたいてしまった。三〇年前とは破防法裁判で沖縄に行っていたころのことなのだが、後に私の話のいい加減さに赤面してしまった。記念館が開館したのは二〇〇四年八月のことなのである。
野原さんはそのことにはふれず、
「とにかく対馬丸の資料を送りましょう」
と言ってくれた。
間もなくして、「対馬丸記念館 公式ガイドブック」などが届いた。気持がつながったと思えて嬉しかった。それは、写真をふんだんに使った、百十三ページにおよぶ本格的な冊子だった。私はむさぼるように読んだ。ほとんどすべてが初めて知る事実である。
対馬丸は昭和十九年八月二十二日夜十時十二分ころ、アメリカの潜水艦ボーフィン号によって撃沈された。トカラ列島悪石島の北西約十キロの地点である。那覇市の八校の国民学校生徒をはじめ、沖縄県内各地からの一般疎開者ら一六六一人を乗せて前日の夕方、九州長崎に向って那覇港を出航した。船出した海は、アメリカ潜水艦によってすでに十七隻が沈められていた。危険を覚悟した出航であったのである。

冊子に「『対馬丸』に関する基礎データ」という一枚の紙が挟まれていた。その冒頭に次のように記されていた。
――「対馬丸」に関する確かなデータは一つもありません。今では考えられないことですが、当時は細部にわたる被害実態調査がされませんでした。このことも対馬丸撃沈事件の本質として、ぜひ語っていただけたらと存じます。

懸命な調査活動が、関係者によって今なお継続されていることに気付いた。
つづいてデータが項目別に記載されている。
①対馬丸の乗船者
疎開者(学童集団疎開、一般疎開)一六六一名
船員                八六名
船舶砲兵隊員            四一名
合計              一七八八名
②対馬丸撃沈による犠牲者
疎開者(学童)     七八〇名
(訓導・世話人)  三〇名
(一般疎開)   六二七名
船員           二四名
船舶砲兵隊員       二一名
合計         一四八二名
※ただしこれは二〇一二年八月二二日までに名前が判明した数で今後もご遺族からの申告があれば増え続けます。

(青木忠)

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