時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【8】NHK大河ドラマ「篤姫」と囲碁(その八)

 徳川十三代将軍家定の死は、安政5年(1858)翌月8月8日に公表された。24歳の空身で落飾(らくしょく=貴人落髪)した篤姫は十四代将軍家茂(いえもち)の母となり大老井伊直弼(いいなおすけ)と対決することになる。世に言う「安政の大獄」の始まりである。


 秀策が古里の父母や尾道の橋本吉兵衛らに書き送った書簡には、こうした政局、経済、事件に到るまで克明に報告されている。
 嘉永7年11月27日に安政と改元されたが、翌安政2年にはお城碁は行われていない。この年は前年の伊豆相模の大地震に引き続き、10月に江戸城も被害を受けた。それが、お城碁中止の理由。だが、秀策の手紙によると家茂は「碁好きの将軍」として知られていたらしい。家定は「五目並べ」をNHK大河ドラマで演じたが、家茂は文久元年にはお城碁とお好み碁まで行い、本因坊秀和をはじめ跡目秀策、各碁家門のお城碁出仕の棋士たちを驚喜させている。
 だが、世は日々動乱の渦中に入り安政の大獄(安政6年)から井伊大老暗殺の桜田門外の変(万延元年)と内憂は打ち続き、外国船の来航も激しく長崎、函館、神奈川の貿易開始。横浜の開港、生麦事件など外交的変革を余儀なくされる外患も相継ぎ、お城碁どころでなくなり、世情は明治維新の大改革に向ってひた走りに走り続けていく様子がうかがえる。
 碁好きな将軍家茂出座の御前対局となった文久元年のお城碁の様子は、天璋院篤姫にも伝わったことであろう。秀策は規定のお城碁で林門入七段と闘い白番14目勝ち。続いてお好み碁は林有美七段に対し白番中押しで勝ちを収めた。
 この林有美七段との対局が前人未踏の大記録とされているお城碁十九連勝の第十九勝目にあたる。お城碁は、文久元年を持って正式には最後のものとなったわけで、翌文久2年も下打ちだけ行われたが将軍上覧は中止されている。
 これまで触れたように数代を経ても中々世に現れない天分と、克苦勉励によって築き上げられた秀策の棋力に反して、世情はその力量を発揮するにはあまりにも社会環境が悪すぎた。嘉永年間は諸外国から開港を迫られ、安政に入ると一層激しくなり、国内は勤王倒幕が表面に台頭して正常を失っていたといえる。
 恒例の幕府主催のお城碁も正常に行われることが少なくなり、秀策が如何に憂慮していたか、書簡の中の随所で読み取ることができる。
 この項「篤姫と囲碁」は終わりますが「本因坊秀策書簡」については時代的背景を紡いでまいりますので引き続き購読のほどをお願い致します。
(庚午一生)

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