ふたりの時代【5】青木昌彦名誉教授への返信

まさかの縁 上
 私が松本籍を抜けて青木籍に入らなければ、おそらく青木昌彦氏との出会いはなかったであろう。まずはそのあたりから整理してみよう。


 因島椋浦町の青木行(ゆき)の養子となったのは、1962年(昭和37)6月5日のことである。その1カ月後の7月5日、青木行は私の父である松本隆雄と婚姻届をして入籍するのである。
 私が松本隆雄と清子の3男として生まれたのは、1944年(昭和19)10月11日のことで、兄ふたり、姉ふたりの末っ子であった。生母・清子は1950年(昭和25)7月23日他界した。それからまもなく青木行が内縁の妻として同居するようになり、5人の子の新しい母になるのである。とりわけ末っ子で幼かった私は、継母・行の愛情のもとで育っていく。
 青木家に入籍当時、私は高校3年生の17歳である。「母・行が松本家に入ったら、青木家がなくなる」と納得済みであった。担任の教諭に報告すると、「何かあったのか」と聞かれたが、特に何にもありませんと答えた。後になって知るのだが、松本家の親族からは異論が出たらしい。今考えてみるに、父・隆雄と母・行の同居から婚姻届まで時間が相当かかっているのは、私の成長を待っていたのかもしれない。
 ところで私が青木籍に入ったころ、昌彦氏はなにをしていたのだろう。安保闘争は1960年6月19日に終焉しそれを担ったブンド(共産主義者同盟)は、同年7月の大会をもって崩壊へと向かった。翌年の1961年3月、ブンドの指導部を形成していた昌彦氏は、「戦線逃亡」をするのである。政治運動に終止符を打ち1962年に理論経済学分野の試験を受けて、東大大学院に入り、マルクス経済学から近代経済学への転身を遂げていく。
 ところで、60年安保闘争は島の高校生であった私にもかなりの影響を与えたみたいだ。1956年の砂川基地拡張反対闘争や1958年の日教組の勤評闘争が書かれた本を、姉の本棚から無断で借りて読んだ覚えがある。高校3年の担任の教諭は、当時を振り返って、「君は学生運動をすると思っていたよ。自分はこう思う、とよく言っていたもの」と述懐していたことを思い出す。
 1963年4月に私は広島大学教育学部に入学し、およそ1年半の迷いを脱却し、1964年7月に学生運動を始める決心をするのである。26歳の昌彦氏は同年8月末、ミネソタ大学大学院入学のために羽田からアメリカに飛び立つ。
 学生運動を始めた私は、60年安保闘争を中心的に担い、「戦線逃亡」をしないで政治闘争を継続したメンバーから強い影響を受けながら、崩壊していた広島大の学生運動の再建をなしとげ、1966年の12月の全学連再建(通称三派全学連)に突き進むのである。その大会で全学連中央執行委員情宣部長に選出され、翌年1月、広島大を後にして上京した。30名近くの仲間が広島駅のプラットホームに見送りにきてくれたことを、今でも思い出す。
 当時の学生運動家の共通した問題意識は、60年安保闘争に強烈な共感を持ちながらも、それを乗り越え70年安保闘争をどのようにつくりあげていくか、にあった。
 私もその渦中に踊りこんでいった。連日の激しい闘争に明け暮れ、70年安保闘争の本番の第1弾となった1969年4月28日沖縄デー闘争を迎えた。この闘争で24歳の私は学生運動を引退した。しかし私は、破壊活動防止法(せん動罪)と凶器準備集合罪、威力業務妨害罪に問われ、その後、20年におよぶ裁判闘争を闘うことになる。
 1990年9月27日、最高裁で有罪判決が下った。懲役3年(執行猶予5年)であった。判決の翌年の1991年(平成3年)7月31日、家族4人で因島に帰り、実家のある因島三庄町で父との同居生活を始めた。2年後、椋浦町の私の家に移ることになった。

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