時代的背景を紡ぐ 本因坊秀策書簡【4】NHK大河ドラマ「篤姫」と囲碁(その四)

 秀策が嘉永七年十一月四日の伊豆相模の国を中心とした大地震の模様と十一月十七日の御城碁において井上因碩六段(松本錦四郎六段)を向先中押勝ちに破った速報など記し故郷の父に送ったものである。


 嘉永三年には「当地棋は甚だ不はずみの様子に御座候」と、世情不安で江戸の囲碁不振をなげいている。そして、同七年には「日本国中大変で当年はお好み碁(御城碁のあとの模範対局)」もなく残念です。来年よりはこれが例になってお好み碁が開催されなくなるのではないか、と心配です。かようなことで囲碁研鑚にかける熱意が欠けるのでは…」と江戸の不穏な世情を書き送っている。
 この書簡は、いわゆる安政元年の伊豆相模の大地震の模様を父宛に知らせた一節であるが、この年、徳川家康が制度化した年中行事である御前対局のお好み碁が初めて中止になった。
 世情を見るに敏な秀策は「このお好み碁中止が今後の例にならぬよう祈った」という訳であったが、その心配は適中した。その年以後は徳川幕府が崩壊するまでお好み碁が行われた年は少なく、寺社奉行宅などで御城碁の下打ちをしてお茶をにごすことが多くなった。
 嘉永七年十一月二十三日附(1854)江戸・本因坊跡目秀策から郷里尾道港橋本吉兵衛と橋本長右衛門にあてたものが残っている。
 この書簡は橋本家両人宛に対して送ったもので、御城碁に出仕、無事務めたこと。十一月四日伊豆相模を中心に襲った大地震の相模を記し、国元尾道の安否をうかがい、手紙を着いたころ尾道に立ち寄る岸本左一郎に伝言を頼んでいる。この手紙の追伸に「書状早便御届け頼み上げ候」は、十一月二十二日附の書簡のことで秀策は橋本家に依頼して郷里因島外ノ浦の父に手紙や物品を届けてもらうのが常であった。
 宛名二名のうち橋本吉兵衛は、秀策の後援者橋本竹下(ちっか)の嗣子(しし=あとつぎ)徳光(静娯)のこと。このころ橋本家は尾道旧市街地の中央部にあり加登灰屋といった。竹下翁は既に隠居しており秀策は「茶園の大人」と呼んでいた。秀策が生まれた文政十二年には竹下翁は四十歳。この書簡が書かれた嘉永七年は六十四歳、秀策は二十五歳であった。当時、橋本家は六十歳になると隠居するという家憲(かけん=家の決まり)があったと伝えられる。
 いま一人の橋本長右衛門は加登灰屋と同族で東灰屋といい、秀策と親交があり書簡の中三通は連署されている。
 「御用滞り無く相勤め候」とは、この年十一月十七日江戸城に出仕して第13代徳川家定の前で対局した。即ち御城碁を無事終って、このときの棋譜四通を作り、栄助、長尾そして橋本、父桑原輪三へ届けている。
 薩摩・島津御一門四家のひとつ今和泉島津家の於一(篤姫)が斉彬の目に留まり、養女として徳川家定の将軍家御台所候補として江戸に到着した翌年の話である。

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