空襲の子【36】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 楠見三兄弟の死(下)

 楠見四兄弟の長兄である高行さんは昭和20年7月28日、米軍の空襲によって日立造船因島工場で亡くなった。避難した簡易防空壕を爆弾が直撃。同じ職場の仲間とともに崩れた土砂に押しつぶされて死んだ。砂に埋もれた仲間をみんなはスコップではなく手で掘り出した。享年38歳。頭部を負傷していたという。


 高行さんは自分が死ぬわずか1カ月前に、二人目の弟の戦死を知った。昭和20年6月29日、末の弟である儀市さんが、山口県周防灘において、船員として乗組んでいた船が米軍の攻撃により撃沈され、帰らぬ人になった。享年27歳。その悲報に、高行さんは何を想っただろうか。2人の弟の死を背負った日々であった。
楠見高行さん
 楠見高行さん=写真=は徴用工である。もともと因島三庄町浜上(3区)で4・5人の従業員を雇い、鉄工所を経営していた。現在の三庄北郵便局あたりである。
 日立造船のすべての工場は、昭和15年以降、海軍または陸軍あるいは海陸共同の管理工場に指定。同17年重要事業場労務管理令によって重要事業場になり、ついには昭和19年1月、軍需会社法により軍需会社に指定された。県下でも三菱重工広島機械製作所や同広島造船所などとともに主要な軍需工場になった。
 社史によると、因島造船所は、商船建造のかたわら艦艇建造を行う工場に指定された。商船は貨物船、鉱石船。本格的な軍隊輸送船で、兵員および上陸用舟艇の輸送設備が施された陸軍用の特殊貨物船を建造。艦艇では海軍の駆潜艇・敷設艇、陸軍の大型上陸用舟艇・戦車揚陸用特大型上陸用舟艇を建造した。
 正規工員のみでは不足し、徴用工・艇身隊・学徒動員などの労働力を多数使用していた。徴用工とは、国民総動員の名のもとに造船以外の仕事に従事している者を強制的に雇用したものである。「第二の赤紙」とも呼ばれ、日立造船因島工場には島内外からの徴用工だけでも、およそ1000人いたと言われている。朝鮮半島からも3次にわたって200人~300人が徴用工として動員された。家族と家業を捨て、低賃金で年少工の指示に従う不慣れな労働であったという。
 また多くの学徒が昭和19年5月から、日立造船の土生・三庄工場、占部造船(田熊)に動員された。日立造船には尾道中学、盈進工業、尾道商業、木江工業(造船科)、戸手実業、竹原商業。誠之館は占部、土生高女は土生と三庄の工場に分かれた。盈進工業は4年生173人が日立造船因島に動員されたという記録が残っている。
 楠見高行さんは鉄工所の従業員とともに造船所に徴用された。鉄工所の機械などは名古屋方面に運ばれたとも言われている。楠見さんが配属されたのは芯出工場だった。職長1人、伍長2人、工員15人。動員学徒尾商から10人。総勢30人の職場。岡野孫三郎職長、楠見高行伍長をはじめ7人が犠牲となった。即死である。同一職場での死者としては因島工場で最多である。
 現在、楠見家を継いでいる啓二さんは長男。父親が死んだ時は、6歳10カ月だった。あまり記憶に残ってないが、父親は釣が好きで、よく連れて行ってもらったことを覚えている。おそらく三庄湾の岩場だったのだろう。
 三兄弟の死後、母・祖母・曾祖母の3人でがんばったと啓二さんは語る。母・藤子さんは浜上で八百屋を開店。曾祖母は畑仕事。芋、麦、はっさく。母は後に農協に勤めた。やがて啓二さんが昭和32年、日立造船因島工場に溶接工として入社することになった。
故楠見高行さん

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