「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【4】第一章 もうひとつの甲子園

私は時代の子であったと身にしみて思うのである。日本の政治が大きく変わる節目を大学生として過ごすことになったからである。

1963年に広島大学に入学。翌年の夏に学生運動を始めた。1967年正月、七〇安保再改定に照準を合わせた全国的学生運動の再建のためにリーダーとして上京する。それ以来、首都東京に住み、日本政府の安保・沖縄政策に真っ向から闘いを挑んだ。

当時の佐藤内閣は、日米安保延長と、沖縄の核と基地を固定化する形での沖縄返還を最重要の政治課題に掲げた。そして、その大枠の日米合意が1969年11月の日米首脳会談においてなされようとしていた。

このままでは、沖縄の現状は永続化していくではないか。何のための沖縄返還なのか。何のための本土復帰なのか。

学生運動はこの会談を中止に追い込むために、その年の四・二八沖縄デーに首都東京において大規模な闘争に決起することを決めた。

1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効によって沖縄は本土から切り離され、米軍支配下に置かれることになった。沖縄の人たちはその日を「屈辱の日」と呼び、四・二八沖縄デーとして闘いつづけてきた。

学生運動は沖縄問題に本土側の責任を自覚した。

講和条約によって沖縄が分離されようとした時に、本土側はそのことに無関心であった。それからもずっと関心を示そうとはしなかった。そして再び沖縄の将来が日米政府によって決められようとしているのに、傍観者でいてよいはずがない。

今度こそ本土側が立ち上がるのだ。その最先頭に学生運動が立つのだ。その矛先は、日本政府に向けられねばならない。全国の主要大学において沖縄問題についての議論が巻き起こり、学生のなかに四・二八沖縄デー決起が浸透していった。

学生運動の指導部は当日の方針を決定し、発表した。それは「首都制圧・首相官邸占拠」という強烈なものであった。万余の学生たちを中心に首都中枢部を埋め尽くし、首相官邸に突入し、占拠しようというものであった。

沖縄においては10万人規模の集会やデモ行進が行われ、文字通り島ぐるみの闘いに発展していた。それに呼応して、日本政府直下の首都東京において数10万人規模の行動が求められていた。そして、その巨大な隊列が首相官邸に向かって進むのだ。

こうした闘争イメージの基になっているのは、1960年のいわゆる六〇年安保闘争である。数10万人規模のデモが国会を包囲し、学生たちは首相官邸に突入し、さらに国会議事堂前で大集会を開催した。

学生運動は見せかけの行動を嫌った。真剣に、その秋に行われようとしていた日米首脳会談を中止に追い込むことを考えたのである。そのために秋を待たずして、その考えに相応しい行動を起こさねばならない。

「首都制圧・首相官邸占拠」の戦術方針は、一気に政治的緊張を作り出していった。政府は全力をあげて、学生の四・二八沖縄決起を封じ込めようとした。様々な脅しでもって学生たちを怖気づけさせようとした。

しかし、学生たちの士気は高かった。政府が威圧すればするほど逆に学生の意識は高まっていった。四・二八には沖縄のために行動に起つのだ。その流れは最早、誰によっても押しとどめることはできない。

ついに決戦の4月がやってきた。

(青木忠)

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