芸予に残る被爆犠牲者の足跡【7】

終戦70周年記念特集 弓削商船高等専門学校学芸部の調査・研究
芸予に残る被爆犠牲者の足跡【7】

商船学科 濱本桂太(4年)、森光勇介(4年)、滝川鉄也(3年)

続・木下良一さんの話

6年生の時、毎朝松下さんと2人でお宮参りをしていた。戦争中だったので武運長久を祈っていたのかどうかよくわからないが、行き帰りにはよく話をした。

ある日、「今日は何を拝んだのか」と松下さんに問うと、「中学校に合格するように…」と受験のことを心配してお参りしたと言ったことがあった。「そんなことより日本が勝つようにお参りしなければいけないだろうが…」と笑いあった記憶がある。

中学校に行くときは、小学校の先生に申し出れば成績に応じて適当なところを勧めてくれた。愛媛県側では今治中学校がトップで、だいたい弓削から7、8人は出ていたと思う。木下さんも今治中学に行く予定であったが、先輩が尾道にこいというので、尾道中学を受けることにした。

松下さんは小学校の成績はトップクラスだった。今治中学校を弓削からは7、8人が受験したが、松下さんだけが不合格となり、広島の修道中学校に行くことになった。

運動神経が特に鈍いわけでもなかったので、「今治中学を落ちたのはどもりのせいだ」とみんなが言っていた。しかし、松下さんの性格などから見ると修道中学の方があっていたかも知れないと思っている。小学校の総合成績ではおそらく木下さんが1番で、松下さんが2番だったと思う。

当時は戦時中だったので現在の若い人達にはわりにくい雰囲気はあったが、松下さんは自分の将来の夢みたいなものをしっかり持っていたようである。松下さんは漢詩を口にしたりしていたが、将来は歴史系の学者を目指していたような気がする。

木下さんが受験したのは尾道中学校だったので、今治中学とは少し違っていたかも知れないが、入学試験は3日間あった。

当時は筆記試験がなくて面接と運動が試験であった。戦時になって筆記試験がなくなり、面接の他は走らされたり、鉄棒をしたり、跳び箱を跳んだりするのが試験だった。当時中学校に田舎の方で行くのは1人か2人だったが、弓削からは今治に7人か8人、尾道に2人、合計10人ほどが行っているので非常に珍しかったと思う。地元に産業がなかったのでとにかく教育を受けさせるという先人の考えを受け継いでいたのではないかと思う。

中学に入ってからは松下さんとはほとんど会うことがなかった。尾道と広島だからすれ違いもあり、当時は月月火水木金金というような感じで学校に行っていたから、また違った学校に行った友達と会うような時間もなかった。

ただ、松下さんは筆まめだったのか、よくはがきはくれたように思う。はがきといっても当時だから紙の切れ端だったり、そんなものが多かった。返事は、筆無精もあり、2回に1度くらいしか書かなかった。中学に入って1年あまりの期間だが、ほとんど会った記憶はない。

松下さんは広島で被爆し8月9日には弓削の方に帰っていたが、木下さんは終戦の8月15日まで向島の工場に学徒動員で出ていた。8月15日に木下さんの姉が「兄の遺骨が帰ってきたのですぐ帰れ」と工場まで迎えに来たので、宿舎に帰らず姉とそのまま家に帰ったら、兄の話はウソであった。

腹がたったので、そのまま工場に帰ろうとしたら、松下秀一郎さんが帰っているのであって行けと誰かにいわれた。それですぐ訪ねていくと、目だけだして、後は包帯でぐるぐる巻きの松下さんがいた。十分な包帯も薬もなく、キュウリを使って冷やしていたのか、何とも変な臭いはするし、居たたまれなかった記憶がある。

15日の敗戦の詔勅は家に帰っているときにラジオのある家で聞いた。翌16日には寄宿舎に帰った。

寄宿舎に帰ると同級生が「大変なことになった。お前みたいに動員をサボって帰った者がいるから日本は負けてしまった。配属将校はカンカンに怒っている」と言うので、「そうか、それなら帰る」と言って宿舎を出かけると「あれはウソよ。そんなこと言う訳ない」と言うのでそのまま残ることにした。

尾道中学校(現在の尾道北高等学校)の寄宿舎は校庭の中にあった。

小学校の時の成績は、木下さんが一番で松下さんが2番だったが、その頃神戸の方から疎開で、2人くらい転校してきた子がいた。

都会と田舎では教育の程度も違っていたので、我々が知らないようなことを言ったりして偉そうにしていたこともあったが、最終的な総合評価ではおそらく負けていなかったと思っている。

松下さんは、性格に非常に優しい面があった。戦時の殺伐とした時代だったので若い人達も皆、いきまいていることが多かった。

ちょうど、漁協の前が海だったが、そこで誰が捕まえてきたのか、誰と誰がいたかは覚えていないが、野良犬か野良猫を捕まえてきて、海に放り投げて、泳ぎ着いたら捧でたたいたりして、子供たちがいじめて遊んでいたことがあった。そこに松下さんもいたが、泣き泣き止めていたのが印象的である。

あの当時そんなことで男が泣くというのは珍しく、今にして思えば非常に優しい気持ちを持っていたんだと思う。戦時中という背景はあったが、松下さんは当時の若者とは違った感覚を持っていたような気がした。

松下さんが今治中学校を落ちたときも、その後もずっと「松下はどもりで死んだんだ」と言うことを我々は言っていた。どもりでなければ今治中学に合格し、そこに行っていたら、爆撃は受けたが、死んだ者はいなかったので、松下さんも死ぬようなことはなかっただろう。木下さんの同級生で、今治に出た男子生徒で死んだ者はいなかったが、女生徒は県女に行った生徒が1人亡くなったと言うことである。

(編者注記 松下さんのどもりのことについては、赤尾さんや麓さんの話の中にも、どもりを直すために巡検後、天井裏に上がって大きな声で何か1人でしゃべっていたと言うようなエピソードがありました。)

8月15日が来ると、亡くなったお父さんやお兄さんのことと共に、松下秀一郎さんのことを思い出し、もし松下さんが生きていたらどんな話をしているかななどと考えたりする。

木下さんは今でも毎日、日記を書いているが8月6日には松下さんのことをたいてい記載してあると言うことである。木下良一さんの人生の中で残念、無念だった大きなことの一つである。

(つづく)

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